an addict*
夢園 5

「あたしの身体を守るために誰かが傷つけば、あたしの心はきっと死んでしまうわ。誰かを糧にして生きていることに絶望し、その事実に耐えられなくなる日が必ず来る」
 それは仮定の話ではあったけれど、容易に想像のできる未来だった。
「……出来るだけ、善処しよう」
 鈴影さんは困ったような慈しむような表情を浮かべて、あたしの額に口づける。
 それでも確約は出来ないと、その頑なな瞳が雄弁に語っているのを見つけてあたしは何も言えずに瞳を閉じた。今はまだ、それでいい。あたしがそう考えていることを知ってくれていれば、極限の状態でそのことを思い出して貰えれば、それでいいのだ。
 あたしの言葉が、最後のストッパーになればいい。
「まだ疲れているんだろう、少し眠るといい」
 そう言って離れていこうとする身体を、あたしは静かに引き留めた。
 まるで病気の時の子供のように、ひどく心細かった。誰かの温もりを感じていないと不安で仕方がなく、鈴影さんのシャツを弱く握って囁いた。
「……そばに、いて」
 鈴影さんは一瞬目を瞠って驚きの表情を浮かべ、しかしすぐに優しい微笑みで身体を寄せてくれた。上質なシャツの肌触り、嗅ぎ慣れた鈴影さんのコロンの香りが近付いて、包まれる。
 逞しい腕の中にぎゅっと抱き込まれて、あたしはやっと安堵して目を閉じた。
「君が眠るまでそばにいるから、安心して眠るといい」
 耳元で低く美しいバリトンの声が響く。優しく、ゆっくりと。
 あたしにとって、鈴影さんの声は精神安定剤のようなものだ。聞いていると身体の力がすうっと抜けて、心が凪いでいく。もう大丈夫だと、そんな無責任な安心感が体中を支配して、弛緩させていくのだ。
「うん……」
 怖いことはもう何も考えたくない。目が覚めれば途端に現実が訪れるのだから、今ぐらいは何の心配もない眠りに落ちていたい。優しく暖かなこの腕の中で、つかの間の夢でいいから。
 優しい夢が、見たかった。


「何か変わったことはないか?」
 クーラーの効いた車内から外に出ると、途端にむっとした熱気が身体を包んだ。夏も終盤だというのに、暑さはやわらぐ気配すら見せていない。
 あたしはじわりと汗が噴き出すのを感じながら、涼しい顔で隣を歩く鈴影さんを見上げた。
「特にない……んだけど、気になっていることならあるわ」
「何だ」
「んー、それがね」
 言いながらロッジのドアを開けると、中には既に全員が顔を揃えていた。
 アイスティーを淹れてくれている光坂くんに気付いてありがとうと声をかけると、光坂くんがどういたしましてと微笑む。アイスの飲み物を淹れるのは光坂くんが一番上手いので、任せることにしている。どうもあたしが淹れると水っぽくなっちゃうのよね。
「ユメミ」
 鈴影さんにソファを勧められながら先を促されて、小さく頷く。
「ここ二、三日なんだけど、妙な視線を感じるの」
「妙な視線?」
 冷泉寺さんが読んでいた洋書から顔を上げて、訝しげに呟きながらヒロシに視線を送る。
「高天、お前気付いたか」
「いや……。視線は分かんないけど、何か薬品の臭いがしてる気がする」
「薬品?」
 鈴影さんが形の良い眉を寄せて、切れ長の瞳を鋭く輝かせた。
「詳しく話せ」
「んー、何ていうのかな。最初は保健室の近くだったからそのせいかなと思ってたんだけど、どうも臭いの種類が違うような気がするんだよ。消毒液とかそんなそこらへんにあるような臭いじゃなくて、もっと嗅いだことのないような薬品の臭いっていうか」
 椅子の背を抱きながら慎重にその臭いを思い出すように話すヒロシの顔が、嫌そうに歪んでいる。あまり好みでない臭いだったらしい。
「それに妙なのが、その臭いがすっげえ薄いの。残り香っていうか移り香っていうか……、とにかくそんな感じのさ」
「それ、最初に気付いたのはいつ頃なんだ」
 冷静な冷泉寺さんの問いかけに、ヒロシが記憶を辿るように押し黙る。
「……三日前かな。保健室に絆創膏貰いに行った日だったから、覚えてる」
 あたしはそれを思い出して、ヒロシに同意をするように頷いた。部活で転んだのか、腕に大きな擦り傷を作っているのが気になって無理矢理保健室に連れて行ったのよね。その日のことだわ。
 鈴影さんは形の良い顎を綺麗な指先でそっと支えて、何かを考えているようだった。
「ユメミが視線を感じているのと、時間的に符合するな」
「日常生活ではお目にかからない薬品の臭いをさせてるやつなんてそんなにいるとは思えないけどな。学校の範囲内で言えば、理科教師、保健医、……広く取って保健委員、化学部、あとは写真部ぐらいか。……なんだ、結構いるな」
 可能性を挙げ始めると意外に多かった該当者に、冷泉寺さんがげんなりとした顔つきで洋書を閉じた。読書の片手間に話をするのは止めたらしい。
「後は、個人的に実験やってるやつとかかな。例えば、あたしとか」
 皮肉気な笑みを口元に浮かべて、挑戦的な眼差しで鈴影さんを見る冷泉寺さんはいかにも楽しそうな表情で瞳を輝かせている。そんな彼女に困ったように苦笑して、鈴影さんがきっぱりと否定した。
「冷泉寺がユメミを狙うメリットがないな」
「わからんさ、何かユメミの心臓が必要な事情があるのかもしれない」
 ニヤニヤと自分を容疑者に仕立て上げる冷泉寺さんの真意は分からないが、これは純粋に会話を楽しんでいるようにも見える。完璧な論法で論破してみせろよと、冷泉寺さんの目が笑っている。こういった時の冷泉寺さんは、まるで子供のようにキラキラした目をしている。鈴影さんとの議論や討論を楽しむというのが、幼い頃からの彼女の一番の遊びだったのかもしれない。
「……話の腰を折るようで悪いけど、薬品の臭いの近くに冷泉寺の匂いはしなかった」
 際限なく続いていきそうな言葉遊びに呆れたヒロシが、その可能性をあっさりと断ち切った。
「だそうだよ」
「……つまらん」
 小さく肩を竦めて冷泉寺さんを見た鈴影さんに、冷泉寺さんは途端に冷めた口調で頭を掻いた。

 continued.
| short novels. | 01:58 | comments (3738) | -
夢園 4

「あたしも、目が覚めてびっくりしたわ。全部夢だと思っていたから」
 ドイツから戻らない鈴影さんに焦れて、あんな夢を見たのだと思っていた。それが現実だったと聞かされて、まだ戸惑いも大きいのだけれど。
「だってそうでしょう? 眠っている間に無意識に移動するなんて、そんなことすぐには信じられないもの」
「……しかし、君の足は傷だらけだったよ。素足でアスファルトの上を歩いたんだろうな、あちこち血が滲んでいて気付いた時は驚いた」
 気遣わしげに、鈴影さんの視線があたしの足下に注がれている。あたしは意識すると少し痛む程度のそれに気付いて、そっと掛け布団を捲った。
 着ているのは昨日寝る前に着替えたネグリジェで、その足下は真白い包帯でぐるぐる巻きにされている。くるぶしの辺りまで丁寧に巻かれているそれに、あたしは怖々と触れた。
「……本当に、ここまで歩いてきたのね」
 呟いた声はするりと静寂に溶け、微かな衣擦れの音だけが耳に届く。まだ眠りについている世界の中で、あたしたちはゆったりと見つめ合った。
 鈴影さんはベッドサイドの椅子からベッドへと腰掛け直し、ほんの少し寝乱れたあたしの髪にキスを落とした。深く長い溜息を零して強くぎゅっと抱きしめられると、ふいに鼻の奥がツンと痛くなる。この強く逞しい腕の中で守られているという充足感が、ひどく心を弱くさせていた。
「鈴影さんがなかなか帰ってこないから、心配したのよ」
 涼しげなコロンの香る胸元に顔を埋めてくぐもった声で呟くと、鈴影さんはあたしにだけ聞こえる声で「すまない」と囁いた。
「おうちのこと?」
「……それもあるが、今回はいろいろと雑事が重なってね」
 癖の強いあたしの髪を梳きながら、形の良い唇が首筋を辿る。くすぐったさに身を捩ると、一層強く抱きしめられた。
 ややしても囲われたままの腕の中で、あたしは訝しげに鈴影さんを見上げた。濃く、憂いを含んだ眼差しが、時を止めたまま落とされている。
「どうしたの? 今日の鈴影さんは何だか変よ」
「……今、日本では妙な噂が流れていてね」
「噂?」
「曰く、不死の妙薬が存在すると」
「……不死の、妙薬」
「選ばれし、清らかなる乙女の心臓を満月の夜に抉り出し、その血を手ずから啜れば永遠の命が約束される。そんな噂がまことしやかに上流階級の一部に流れている」
「それって……」
「そう、ユメミのことだ。聖宝のことは上手くぼかされて事実ではない情報も混じってはいるが、内容はほぼ正しい」
 長い長い溜息が零れた。
「どこからこの話が流れたのか、今騎士団本部が調べている。本来なら七聖宝に関する情報は、限られた者だけが知りうるトップシークレットだ、外部に漏れることなどあり得ない」
「それが、流出している……」
「そうだ。しかし月光のピアスのことには触れられていない。選ばれし清らかな乙女という言い方は、真実を隠す格好の隠れ蓑だ」
 あたしは自然と自分の身体が硬直していることに気付いた。
 自分の心臓が狙われている、その事実はひどくあたしを動揺させた。当然だろう、誰ともしれない誰かに命を狙われているのだ。
 お金と人脈を持つ権力者が古来より欲してやまないもの、いつかは必ず消えてしまう自分の生命を購うものがあるとすれば人は必死にそれを探すだろう。そしてそれを手に入れるためなら、どんなに恐ろしいことにも手を染める。それは過ぎ去った歴史が、書物を通じて証明している。
「あたしの心臓を探し求めている人がいる……」
 それは言葉にするのも恐ろしい現実だった。
「何者にも君を傷つけさせはしない、絶対にだ」
 ぽつりと零したあたしに、鈴影さんは鋭く強い口調で断言した。まるで、この事実はどんなことがあっても覆らないとでも言うように。
 あたしは鈴影さんの胸元にきつく顔を寄せて、分かっているわと頷いた。
 彼はどんなことがあってもあたしを守ってくれるだろう。それこそ、自分の生命と引き替えにしても。……あたしはそれが、ひどく怖かった。彼の献身の精神はとても尊く素晴らしいものだけれど、あたしは今それを望んではいない。
「怖がらせるつもりはないけれど、ユメミが狙われているというのは隠しようのない事実だ。だからユメミも、充分に用心して欲しい」
「……夜になったら、ここに来ればいいの?」
 先刻のやりとりを思い出しながらそう言うと、鈴影さんは真面目な顔で頷いた。
「日中の身辺警護は日本支部の騎士たちを派遣する。学内はオレと冷泉寺、高天、光坂がつく」
 あたしはその物々しい警戒態勢をいつものように笑い飛ばすことが出来ずに、従順に承諾した。
 ほうと息を吐いてぐったりと項垂れると、蓄積した疲れが一気に身体を重くした。ずんとした疲労感が、今夜一度に訪れた災難に対する不安を増幅させる。嫌な相乗効果だ。
 意識すると途端に疼きだす足も、深夜に無意識で徘徊する身体も、狙われる心臓も、全て自分のことなのに妙に現実感が薄い。なのに、漠然とした不安と恐怖心だけが、胸の奥底で燻っている。
(……こわい、こわい、こわい!)
 何もかも全てが恐ろしく、まるで殺人犯に背後から追いかけられてでもいるかのような焦燥感があたしを襲っていた。……こんなことは初めてだった。
 どんなことがあっても、明るく前向きでいることだけがあたしの唯一の取り柄だったのに。
 何も言わずにただ体重を預けるばかりのあたしの身体を、鈴影さんはそっとベッドに横たえた。長く美しい髪がさらりと落ちて、艶やかな情熱に満ちた眼差しがあたしを見下ろしている。
「鈴影さん……」
「ユメミのことは、必ず守る」
 翳りのない一心にそう決意していることが知れる強い視線に射竦められて、あたしはひどく悲しくなった。
 そうじゃないのよと言いたかった。そんなことを望んでいるわけじゃないの。あたしが感じているこの恐怖は、あたし自身の身の安全に対する恐れだけではなく、関わってくれている誰かを失うのではないかという部分も大きい。それは鈴影さんのことであり、冷泉寺さんや光坂くん、ヒロシ、他の騎士団の人たちのことでもある。自分が原因で誰かが傷つくのを見るのは、甘いと言われようがどうしても嫌なのだ。
「ねえ、鈴影さん。……あたしを守ってくれると言ってくれるのはとても嬉しいんだけど、もし本当にそう思ってくれているのなら身体だけじゃなくて、心も守って欲しい」
「心、も?」
 どうしても震えてしまう手で、鈴影さんの頬に触れた。鈴影さんはその手の感触に切れ長の美しい瞳を細めて、あたしの小さな手をそっと覆うように包み込む。二人の体温が重なって、ひどく熱い。あたしは小さく頷いて、真っ直ぐに鈴影さんを見つめた。身体は未だ怯えを宿したまま、けれど精一杯の虚勢をはって。

 continued.
| short novels. | 01:57 | comments (0) | -
夢園 3

「何も、覚えていないのか?」
 もう一度確認するように問われて、あたしは冷泉寺さんのほうへ視線を戻した。
「眠ってからの記憶は誰だってないでしょう? あるとしたらそれは、夢だけよ」
 冗談めかして言ったあたしの言葉に引っかかるものを感じたのか、鈴影さんがその綺麗な眉根を寄せた。美しい黒曜の瞳に憂いの色を混ぜて、どこか躊躇うように口を開く。
「……どんな夢を見た?」
「レオン?」
 いつもとは違う鈴影さんの様子に、冷泉寺さんが訝しげに声を掛ける。
 あたしはそんな二人をぼんやりと見つめて、徐々に薄れようとしている夢の記憶を手繰った。それは茫洋と、雲のように掴み所のない淡い一時だった。
「……真っ暗な闇の中で、誰かがあたしを呼んでるの。あたしはその声を追って、ふわふわした綿菓子みたいな地面を走る」
 優しい声だったような気がする。
 柔らかく愛情深い女性の声、あれはもしかしたらママだったのかもしれない。こっちへいらっしゃいって声だけが聞こえて、あたしはその声の主の顔が見たくてただがむしゃらにそれを追った。
「声はどんどん遠くなって、聞こえなくなって、足が止まればまた近くに来るの。その繰り返しを何度も……」
 短い間に繰り返される絶望と希望に、あたしはもう何も分からなくなっていた。ただ足を動かして声を追うだけの、簡単なからくりのしかけ人形にでもなってしまったかのようだった。
 曖昧な夢の続きを思い出そうと口をつぐんだあたしに、先を促すように鈴影さんが頷いた。それはいつになく冷静で落ち着いた様子で、ざわついたあたしの神経は瞬く間に凪いで静まる。しんとした静寂を切り裂くように時折ごぽりと浮かび上がる記憶を、あたしは逃がさないようにそっと引き寄せた。
 上下すらも分からない暗闇の中、境目の分からない夢と現実の狭間に香ったのは、
「何回目かの無音の世界の中で、ふいに薔薇の匂いが強くなって、……目を開けたら、」
 そうしてはっきりと思い出す。暗闇の中に灯るオレンジ色の炎、刺さった棘の痛み、近づいてくる足音と少し低めの艶やかな声。
 あたしははっと顔を上げて、傍らの鈴影さんを見つめた。
「……鈴影さんが居たの」
 最後までそう口にすると、鈴影さんは思案するように小さく頷いた。
 何か気がかりなことでもあるのだろうか。そう思って冷泉寺さんに視線を送ると、彼女は困ったように肩を竦めてみせた。鈴影さんのこの行動に思い当たる節はないらしい。
 ややして、鈴影さんはふうっと大きく吐息して顔を上げた。瞳の内側にはまだ微かに憂いの色が残っているように思えて、膝の上で組まれたままの指先にそっと触れると、何でもないと言うように小さく笑った。
「……うちに来てからの記憶はあるようだな」
「あたし、どうしてここに居るの?」
 鈴影さんは納得したようだったけれど、あたしには何が何だか分からない。眠っていたはずの場所とは違うところで目が覚めるというのは、どこか気味が悪くてざわざわした気分になる。得体の知れない不安がゆっくりと身体を這い上がってくるようだった。
「……夢遊病じゃないかと思う。医学的には睡眠時遊行症と言うんだが、深い睡眠状態時に無意識に動いたり歩き回ったりするんだ」
 冷泉寺さんが慎重に言葉を選びながら応えた。しかし、と言葉を継いだその顔は少し険しく見える。
「お前の場合はピアスという外的要因の可能性も捨てきれないし、夢遊病だとしてもこれまでの症例と合わない部分も多い。断定はできない」
「……あたしは自分の部屋で眠ってから、眠ったままで起き出してここまで歩いてきたっていうこと?」
 そういう病気だとしても、ピアスのせいだとしても、眠ったままで鈴影さんのお家まで歩いてきたというのはぞっとしない話だった。暗闇の中をふらふらと意識もないままで歩き続けて、よくも無事にここまで辿り着いたものだ。驚きというよりも、むしろ感心してしまう。
「これがもし夢遊病だとしたら、続いて同じようなことが起こる可能性が高い」
「そんな……」
 冷泉寺さんが小さく溜息をつきながら言った言葉に、あたしは思わず声をあげた。冗談じゃないわ、こんなことが度々起こるなんて考えるだけで背筋がざわつく。
「原因が分かるまでは、夜はここで過ごした方がいいだろうな。レオンとも話してたんだが、最初から目的地に居ればそれ以上動くこともないだろう」
 普段より幾分か乱れがちな髪をわしわしとかき混ぜて、冷泉寺さんは小さな欠伸をかみ殺した。ふと気になって、チェストの上の置き時計に目をやると、やはり時刻は陽も昇りきらない早朝だった。五時だなんて、普段のあたしでもまだ眠っている時間だ。
 あたしはその時初めて、冷泉寺さんの雰囲気がいつもとは違うことに気がついた。
 洗いざらしたジーパンと、くったりと皺の寄ったコットンシャツという出で立ちは普段の彼女からすると相当にカジュアルだ。あたしにはそれが、鈴影さんに呼び出されて取るものも取り敢えず慌ててやってきた彼女の誠意に映った。
 あたしは眠そうな彼女の様子に、急に申し訳ない気分になって小さく「ごめんなさい」と呟く。
 不思議そうに首を傾げる冷泉寺さんに苦笑を返して、
「こんな早くから、あたしのために来てくれたんでしょう?」
 と応えると、冷泉寺さんは合点したようにああと首肯した。彼女はやめてくれと緩く手を振って、白いその横顔にニヒルな笑みを浮かべた。
「我らが貴女候補生のピンチとあってはな。出てこないわけにはいくまいさ」
 皮肉気な口ぶりは感謝される気恥ずかしさを誤魔化すためで、彼女があたしたちを思ってくれている事実は変わらずその根本に根付いている。あたしは素直じゃない彼女の反応に微笑ましさを感じて、もう一度小さくありがとうと呟いた。
 そんなあたしたちのやりとりに鈴影さんが吐息するように笑って、立ち上がる。傍らに居た冷泉寺さんの肩に手をやって、労るように声を掛けた。
「続きは一眠りしてからにしよう。冷泉寺、少しゲストルームで眠っていけ」
「そうさせてもらうよ。レオンはもう少しユメミに付いててやってくれ」
「ああ」
 じゃあなと手を挙げて、冷泉寺さんはゲストルームを後にした。
 あたしは重厚な扉の向こうに消えていく彼女の背中を見つめながら、どこか他人事のように今聞いた話を反芻していた。突然聞かされた夢遊病という病気の話も、妙にだるい自分の身体にも現実感はなく、ただ困惑するばかりだった。
「君がうちの庭に現れた時は、本当に驚いた」
 鈴影さんが綺麗な指先を膝の上で組みながら、静かに呟く。あたしはその声に視線を戻しながら、口元を微かに綻ばせた。

 continued.
| short novels. | 01:56 | comments (0) | -
夢園 2

「……なのか」
「さあな。話を聞く限りは夢遊病じゃないかとは思うが、現場を見たわけでもないから断言はできんな」
 少し離れたところから、聞き慣れた声が微かに聞こえては遠くなっていく。すうっと浮上した意識はまた次第に散漫になり、そこに誰が居るのかも分からないまま、あたしの身体はぴくりとも動かない。まるで全身が石にでもなってしまったかのように、ひどく重かった。
「ただでさえ、ユメミは月光のピアスなんて現代科学では解析出来ないものを着けてるんだ。そのせいだと言われれば、医学なんて何の役にもたたんさ」
「ピアスのせいだと?」
「ユメミの場合あいつの体に起こる全ての現象において、医学だけでは計りきれないという意味だ。あのピアス自体が不思議な力を持っているし、他の聖宝との兼ね合いでその状態も変わってしまうんだろう?」
「……月光のピアスが現時点で他の聖宝に反応しているというのは考えにくいな。オンディーヌの聖衣以上に相性の良い聖宝は存在しないし、あれは今日本には無い」
「だとすると、本当に純粋な夢遊病か……。今までの症例を考えると可能性は低いと思うんだがな」
 ふうと小さな溜息が聞こえて、微かな衣擦れの音が静かな室内に響いた。
「まあ何にせよ、しばらく様子を見たほうがいい。これが続くようならうちの病院に連れてこいよ」
「そうだな……」
「心配だろうから、夜はこっちで面倒みてやったらどうだ? 行き先がここなら最初から目的地に置いておいてやればいい。向こうの親御さんにもこの状態を説明すれば分かって貰えるだろ」
「ああ、そうしてみよう。早朝から悪かったな、冷泉寺」
「いいよ。ああ、足の治療はしておいたけど、切り傷と擦り傷が多いからしばらくは痛むぞ。一日一回、風呂上がりにでも消毒して包帯を巻き直すように言っといてくれ」
「分かった」
「ったく、裸足で砂利道なんか歩くもんじゃないな。皮膚に食い込んだ砂粒取るのがどんだけ大変だったか……、ピンセットで一粒ずつだぞ。気が狂いそうだった」
(何、を……、話しているの?)
 誰かが近くで話しているのに、まるでそれが外国の言葉であるかのように理解出来ない。ぼんやりと霞がかった言語中枢が考えることを放棄しているのだろうか。
 それでも、重い体は幾分か固さを解き始めていた。ずっと凍り付いたように動かなかった体が次第に弛緩していくのが分かる。凍てついた指先が少しずつ溶けていくような、そんな感覚。
(ゆっくりとなら、指先も動く……、なのに目蓋が、重い)
 覚醒への最後の扉が開かない。そこに誰がいるのかを確かめたいのに。
「そう言えばレオン、進学先を迷ってるって?」
「……誰に聞いた」
「レオンとこの担任、空手部の顧問だからさ」
「ああ、そう言えばそうだったな……」
「随分悩んでる様だから、それとなく聞いてやってくれって頼まれたんだけど」
「相談にのってくれるのか?」
 笑いを含んだ声が甘やかに響いて、その響きの残滓が鼓膜を揺らした。言語を理解しないあたしの耳には、ただうっとりとした感覚だけが残っている。
「のってやってもいいが、あたしじゃ役不足だろ。どうせ原因は仰々しい本家の親族会議あたりだろうしな」
「ご名答。まあ今月中には決める」
「そうしてくれ。あたしもいい加減顧問に泣きつかれるのは面倒だ」
 ごつい熊に拝み倒されてみろ、むさ苦しくてかなわんと笑い声がして、あたしの意識は急激に浮上していく。深海から浮かび上がる小さな泡のように、こぽりこぽりと揺れながら。
 あたしはふるりと睫毛を揺らして、ゆっくりと目を開いた。
「ユメミ? 起きたか」
「……鈴影さん、と、冷泉寺さん?」
 未だ焦点の合わないかすんだ視界に、見慣れた顔が優しく微笑む。
 ベッドサイドの椅子に座ったままあたしの顔を覗き込むようにしていた鈴影さんの後ろで、冷泉寺さんが小さく口元を緩めた。
「そうだ。随分ゆっくりとしたお目覚めだな、眠り姫」
「……身体が、動かなくて」
 そう言ってから、ゆっくりと腕を持ち上げたあたしは目の前でしっかりと指先を動くのを確認して、ほっと息を吐いた。
 うん、指先も足もちゃんと動く。
「大丈夫か? 枕を宛うからゆっくりと身体を起こすといい」
 そんなあたしの様子を見て、鈴影さんが気をつかって身体を起こすのを手伝ってくれる。あたしは申し訳なく思いながらも、けれど身体中に広がる鈍い倦怠感には勝てずにされるがままにベッドヘッドにもたれ掛かった。人心地ついて大きく息を吐き出すと、ふと自分が居る部屋の不自然さに気がつく。
「ここ、鈴影さんのお家のゲストルーム……?」
「そうだよ。何度も泊まったことがあるだろう」
 怪訝な顔をしているあたしに、鈴影さんは微かに眉根を寄せた。何かを確認するように冷泉寺さんを振り返り、冷泉寺さんがそれに応えて小さく頷く。
「ユメミ、昨日のことを覚えているか?」
 鈴影さんが座っている椅子の背に右手をかけて、冷泉寺さんが真剣な顔つきであたしを覗き込む。あたしは小さく首を傾げて、昨日、と呟いた。
「学校の帰りに買い物をして、お夕飯を作って食べさせて、弟たちをお風呂に入れて、パパにおやすみを言って眠ったわ」
 そして昨日の記憶はそこで途切れている。当然と言えば当然だろう、眠ってしまったらそこで一日は終わりなのだ。そして目が覚めればまた、次の一日が始まる。
 そこでふと、あたしは大きな矛盾に気付いた。
「次の日?」
 本当なら目を覚ますのは自分の部屋のはずで、でも今居る場所は間違いなく鈴影さんのお家だ。
 見慣れたゲストルーム、鈴影さんのお家に泊まる時にはいつもここを用意して貰っている。ここが鈴影さんの私室と一番近いゲストルームだからだ。でも、何故今ここに居るのかが分からない。
 呆然と呟いたあたしの様子に、鈴影さんと冷泉寺さんは一瞬顔を見合わせて戸惑った表情を見せた。

 continued.
| short novels. | 01:55 | comments (0) | -
夢園 1

 風に揺られる月夜に一人、覚束ない足取りで辿るのは誰も知らない夢の国。
 ひらり桃色のネグリジェが翻り、薔薇の香りに包まれる。
 ひとつ儚い夢の中、ふたつ朧な現実の、みっつ静かなバラ園で、
 巡り合うのは誰と誰?


 夢を、見た。
 一筋の光もない闇の中を、当て所もなく彷徨い続ける夢だ。
 自分の足下さえも見えないねっとりとした暗がりを、覚束ない足取りでそれでも進んでいくのは、そうしなければこのままこの空間で朽ちていくばかりだと頭のどこかで感じ取っているからだ。ぼんやりと前だけを見つめて足を出す、その繰り返しはいつ尽きるとも知れない永久運動のようで、少し怖い。上下左右も分からないままに、あたしはただ歩き続けていた。
 助けて、誰かあたしを助けてと思うことはとても安易で、そして楽だ。だからこそ、それに甘んじるのは嫌だと思う。そんなことを繰り返していたら、あたしはきっと自分の力では立ち上がれなくなってしまう。両足をもがれた人形のように、虚ろな目で誰かを待つだけの日々なんて真っ平ご免だ。あたしはいつまでも、あたしで在りたい。
 辿り着かない旅路の向こう側で待っているのは愛しい人で、あたしはそこに向かっているのだと思えばこの状況も辛くはない。夢は、いつか醒めるものだから。
 だから、再び暗がりの中で目を開いた時にそこに広がるのが深夜の闇だということに気付いても、あたしはちっとも不思議だとは思わなかった。それは今まで見ていた夢の続きだと思ったからだ。
「……薔薇の、香り」
 不意に風に乗って香ってきた、強い薔薇の香りにあたしは小さく首を傾げた。
 香りはすれども姿は見えず、濃い闇の中ではそこに薔薇があるのかすらも分からずに、あたしは手探りで周りを探った。少し歩くと、カサカサとした茂みに触れることが出来て、その感触にあたしはよく出来た夢だなあと感嘆の溜息を漏らす。
 色は無いけれど、嗅覚も触覚もある夢を見るのは初めてだ。全てが生々しくて、なのに視覚だけが乏しいのが残念でならないけれど。
「痛ッ」
 本当に薔薇なのだろうかとあちこち触っている内にどうやら棘に触ってしまったらしく、不用意に差し出した指先が微かに痛んだ。じわりと痛み出すこの痛覚も夢なのだろうか。だとすれば何て精巧で残酷な夢だろう。
「……この夢の中で死んじゃったら、本当に現実でも死ぬんじゃないかしら」
 そんな風にすら思えるほど、夢と現実が近い。
「誰かいるのか」
 醒めることのない夢の中でぼんやりと溜息をついたあたしの向こう側から、不意に鋭い声が飛んだ。
 声のする方に目を向けると、バラ園らしいこの空間にぽつりとオレンジ色の灯火が浮かんでいた。ゆらゆら揺れるその光が、ゆっくりとあたしに近付いてくる。
 次第にぼんやりと浮かび上がる灯火の持ち主に、あたしは小さく息を飲んだ。光源の周囲に薄く浮かんでいる薔薇の中に、微かに人影らしい姿が見える。長い髪の、背の高い男の人。
「……鈴影さん?」
 あたしは驚きを隠せずに、囁くようにその名を呼んだ。今まで生きてきた中で、一番大事な愛しい人の名前。
「ユメミ? ユメミなのか?」
 聞き慣れた艶のある声が、するりとあたしの耳殻に入り込む。あたしは目一杯腕を伸ばして、近付いてくる温もりに触れた。首筋に縋り付いて、艶やかな髪の感触を確かめて、ほっと吐息が漏れた。
 ひとりぼっちの闇の中で、やっぱり少し怖かったのかもしれない。呟いた声は少しだけ掠れて、震えていた。
「夢でも逢えるなんて、嬉しい」
 抱きしめた温もりは確かに鈴影さんの匂いがした。いつも彼がつけている涼しげな香水の香りは、不思議とあたしの心を落ち着け優しく宥めてくれる。回された手の感触を背に感じながら、あたしは夜風に冷えた頬を擦り寄せた。
 鈴影さんはそんなあたしを抱き留めてくれながら、訝しげに問う。
「……夢?」
「そう、夢よ。だって本物の鈴影さんは今頃ドイツのミカエリス家に居る筈だもの」
 頬から伝わる体温に、けれど夢でもいいと思いながらろくに何も告げずに旅立ってしまった鈴影さんを想う。
 鈴影さんが忙しくなくドイツに発ったのは、二週間前のこと。相続の残務整理でどうしても鈴影さんのサインが必要な書類があるのだと言って行ったきり、向こうで新たに用事でも出来たのか帰ってくる気配すらない。それを少し寂しく思いながらも、あたしは気丈に振る舞いながら鈴影さんの帰りを待っている。思いを通わせてから、こんなに長い間離れていることがなかったせいか胸にぽっかりと穴が開いたような気分のまま。
「……ユメミ?」
 ほんの少しの沈黙の後、鈴影さんの声がやけに近い所から聞こえた。耳殻のすぐ上、優しい振動に鼓膜が震えた。
「なぁに」
「どうやってここまで来たんだい」
「夢だもの、ふらふら歩いてたら着いたのよ」
「靴も履かずに?」
 片手であたしを抱き寄せて、もう片方の手に持ったランプであたしの足下を照らしながら、鈴影さんが言う。
「気が付いたらここに居たんだもの。……ぇ、きゃあ!」
「……信じられないな。そんな薄着で、しかも裸足でなんて」
「ちょっ、ちょっと、鈴影さん!」
 他愛もなくあたしを抱え上げた鈴影さんは、暴れるあたしの背を優しく叩いて、
「大人しくしていろ。そのままだと足が痛むよ」
 と呆れたように呟いた。

 continued.
| short novels. | 01:55 | comments (0) | -
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