an addict*
夢園 4

「あたしも、目が覚めてびっくりしたわ。全部夢だと思っていたから」
 ドイツから戻らない鈴影さんに焦れて、あんな夢を見たのだと思っていた。それが現実だったと聞かされて、まだ戸惑いも大きいのだけれど。
「だってそうでしょう? 眠っている間に無意識に移動するなんて、そんなことすぐには信じられないもの」
「……しかし、君の足は傷だらけだったよ。素足でアスファルトの上を歩いたんだろうな、あちこち血が滲んでいて気付いた時は驚いた」
 気遣わしげに、鈴影さんの視線があたしの足下に注がれている。あたしは意識すると少し痛む程度のそれに気付いて、そっと掛け布団を捲った。
 着ているのは昨日寝る前に着替えたネグリジェで、その足下は真白い包帯でぐるぐる巻きにされている。くるぶしの辺りまで丁寧に巻かれているそれに、あたしは怖々と触れた。
「……本当に、ここまで歩いてきたのね」
 呟いた声はするりと静寂に溶け、微かな衣擦れの音だけが耳に届く。まだ眠りについている世界の中で、あたしたちはゆったりと見つめ合った。
 鈴影さんはベッドサイドの椅子からベッドへと腰掛け直し、ほんの少し寝乱れたあたしの髪にキスを落とした。深く長い溜息を零して強くぎゅっと抱きしめられると、ふいに鼻の奥がツンと痛くなる。この強く逞しい腕の中で守られているという充足感が、ひどく心を弱くさせていた。
「鈴影さんがなかなか帰ってこないから、心配したのよ」
 涼しげなコロンの香る胸元に顔を埋めてくぐもった声で呟くと、鈴影さんはあたしにだけ聞こえる声で「すまない」と囁いた。
「おうちのこと?」
「……それもあるが、今回はいろいろと雑事が重なってね」
 癖の強いあたしの髪を梳きながら、形の良い唇が首筋を辿る。くすぐったさに身を捩ると、一層強く抱きしめられた。
 ややしても囲われたままの腕の中で、あたしは訝しげに鈴影さんを見上げた。濃く、憂いを含んだ眼差しが、時を止めたまま落とされている。
「どうしたの? 今日の鈴影さんは何だか変よ」
「……今、日本では妙な噂が流れていてね」
「噂?」
「曰く、不死の妙薬が存在すると」
「……不死の、妙薬」
「選ばれし、清らかなる乙女の心臓を満月の夜に抉り出し、その血を手ずから啜れば永遠の命が約束される。そんな噂がまことしやかに上流階級の一部に流れている」
「それって……」
「そう、ユメミのことだ。聖宝のことは上手くぼかされて事実ではない情報も混じってはいるが、内容はほぼ正しい」
 長い長い溜息が零れた。
「どこからこの話が流れたのか、今騎士団本部が調べている。本来なら七聖宝に関する情報は、限られた者だけが知りうるトップシークレットだ、外部に漏れることなどあり得ない」
「それが、流出している……」
「そうだ。しかし月光のピアスのことには触れられていない。選ばれし清らかな乙女という言い方は、真実を隠す格好の隠れ蓑だ」
 あたしは自然と自分の身体が硬直していることに気付いた。
 自分の心臓が狙われている、その事実はひどくあたしを動揺させた。当然だろう、誰ともしれない誰かに命を狙われているのだ。
 お金と人脈を持つ権力者が古来より欲してやまないもの、いつかは必ず消えてしまう自分の生命を購うものがあるとすれば人は必死にそれを探すだろう。そしてそれを手に入れるためなら、どんなに恐ろしいことにも手を染める。それは過ぎ去った歴史が、書物を通じて証明している。
「あたしの心臓を探し求めている人がいる……」
 それは言葉にするのも恐ろしい現実だった。
「何者にも君を傷つけさせはしない、絶対にだ」
 ぽつりと零したあたしに、鈴影さんは鋭く強い口調で断言した。まるで、この事実はどんなことがあっても覆らないとでも言うように。
 あたしは鈴影さんの胸元にきつく顔を寄せて、分かっているわと頷いた。
 彼はどんなことがあってもあたしを守ってくれるだろう。それこそ、自分の生命と引き替えにしても。……あたしはそれが、ひどく怖かった。彼の献身の精神はとても尊く素晴らしいものだけれど、あたしは今それを望んではいない。
「怖がらせるつもりはないけれど、ユメミが狙われているというのは隠しようのない事実だ。だからユメミも、充分に用心して欲しい」
「……夜になったら、ここに来ればいいの?」
 先刻のやりとりを思い出しながらそう言うと、鈴影さんは真面目な顔で頷いた。
「日中の身辺警護は日本支部の騎士たちを派遣する。学内はオレと冷泉寺、高天、光坂がつく」
 あたしはその物々しい警戒態勢をいつものように笑い飛ばすことが出来ずに、従順に承諾した。
 ほうと息を吐いてぐったりと項垂れると、蓄積した疲れが一気に身体を重くした。ずんとした疲労感が、今夜一度に訪れた災難に対する不安を増幅させる。嫌な相乗効果だ。
 意識すると途端に疼きだす足も、深夜に無意識で徘徊する身体も、狙われる心臓も、全て自分のことなのに妙に現実感が薄い。なのに、漠然とした不安と恐怖心だけが、胸の奥底で燻っている。
(……こわい、こわい、こわい!)
 何もかも全てが恐ろしく、まるで殺人犯に背後から追いかけられてでもいるかのような焦燥感があたしを襲っていた。……こんなことは初めてだった。
 どんなことがあっても、明るく前向きでいることだけがあたしの唯一の取り柄だったのに。
 何も言わずにただ体重を預けるばかりのあたしの身体を、鈴影さんはそっとベッドに横たえた。長く美しい髪がさらりと落ちて、艶やかな情熱に満ちた眼差しがあたしを見下ろしている。
「鈴影さん……」
「ユメミのことは、必ず守る」
 翳りのない一心にそう決意していることが知れる強い視線に射竦められて、あたしはひどく悲しくなった。
 そうじゃないのよと言いたかった。そんなことを望んでいるわけじゃないの。あたしが感じているこの恐怖は、あたし自身の身の安全に対する恐れだけではなく、関わってくれている誰かを失うのではないかという部分も大きい。それは鈴影さんのことであり、冷泉寺さんや光坂くん、ヒロシ、他の騎士団の人たちのことでもある。自分が原因で誰かが傷つくのを見るのは、甘いと言われようがどうしても嫌なのだ。
「ねえ、鈴影さん。……あたしを守ってくれると言ってくれるのはとても嬉しいんだけど、もし本当にそう思ってくれているのなら身体だけじゃなくて、心も守って欲しい」
「心、も?」
 どうしても震えてしまう手で、鈴影さんの頬に触れた。鈴影さんはその手の感触に切れ長の美しい瞳を細めて、あたしの小さな手をそっと覆うように包み込む。二人の体温が重なって、ひどく熱い。あたしは小さく頷いて、真っ直ぐに鈴影さんを見つめた。身体は未だ怯えを宿したまま、けれど精一杯の虚勢をはって。

 continued.
| short novels. | 01:57 | comments (0) | -
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