an addict*
夢園 3

「何も、覚えていないのか?」
 もう一度確認するように問われて、あたしは冷泉寺さんのほうへ視線を戻した。
「眠ってからの記憶は誰だってないでしょう? あるとしたらそれは、夢だけよ」
 冗談めかして言ったあたしの言葉に引っかかるものを感じたのか、鈴影さんがその綺麗な眉根を寄せた。美しい黒曜の瞳に憂いの色を混ぜて、どこか躊躇うように口を開く。
「……どんな夢を見た?」
「レオン?」
 いつもとは違う鈴影さんの様子に、冷泉寺さんが訝しげに声を掛ける。
 あたしはそんな二人をぼんやりと見つめて、徐々に薄れようとしている夢の記憶を手繰った。それは茫洋と、雲のように掴み所のない淡い一時だった。
「……真っ暗な闇の中で、誰かがあたしを呼んでるの。あたしはその声を追って、ふわふわした綿菓子みたいな地面を走る」
 優しい声だったような気がする。
 柔らかく愛情深い女性の声、あれはもしかしたらママだったのかもしれない。こっちへいらっしゃいって声だけが聞こえて、あたしはその声の主の顔が見たくてただがむしゃらにそれを追った。
「声はどんどん遠くなって、聞こえなくなって、足が止まればまた近くに来るの。その繰り返しを何度も……」
 短い間に繰り返される絶望と希望に、あたしはもう何も分からなくなっていた。ただ足を動かして声を追うだけの、簡単なからくりのしかけ人形にでもなってしまったかのようだった。
 曖昧な夢の続きを思い出そうと口をつぐんだあたしに、先を促すように鈴影さんが頷いた。それはいつになく冷静で落ち着いた様子で、ざわついたあたしの神経は瞬く間に凪いで静まる。しんとした静寂を切り裂くように時折ごぽりと浮かび上がる記憶を、あたしは逃がさないようにそっと引き寄せた。
 上下すらも分からない暗闇の中、境目の分からない夢と現実の狭間に香ったのは、
「何回目かの無音の世界の中で、ふいに薔薇の匂いが強くなって、……目を開けたら、」
 そうしてはっきりと思い出す。暗闇の中に灯るオレンジ色の炎、刺さった棘の痛み、近づいてくる足音と少し低めの艶やかな声。
 あたしははっと顔を上げて、傍らの鈴影さんを見つめた。
「……鈴影さんが居たの」
 最後までそう口にすると、鈴影さんは思案するように小さく頷いた。
 何か気がかりなことでもあるのだろうか。そう思って冷泉寺さんに視線を送ると、彼女は困ったように肩を竦めてみせた。鈴影さんのこの行動に思い当たる節はないらしい。
 ややして、鈴影さんはふうっと大きく吐息して顔を上げた。瞳の内側にはまだ微かに憂いの色が残っているように思えて、膝の上で組まれたままの指先にそっと触れると、何でもないと言うように小さく笑った。
「……うちに来てからの記憶はあるようだな」
「あたし、どうしてここに居るの?」
 鈴影さんは納得したようだったけれど、あたしには何が何だか分からない。眠っていたはずの場所とは違うところで目が覚めるというのは、どこか気味が悪くてざわざわした気分になる。得体の知れない不安がゆっくりと身体を這い上がってくるようだった。
「……夢遊病じゃないかと思う。医学的には睡眠時遊行症と言うんだが、深い睡眠状態時に無意識に動いたり歩き回ったりするんだ」
 冷泉寺さんが慎重に言葉を選びながら応えた。しかし、と言葉を継いだその顔は少し険しく見える。
「お前の場合はピアスという外的要因の可能性も捨てきれないし、夢遊病だとしてもこれまでの症例と合わない部分も多い。断定はできない」
「……あたしは自分の部屋で眠ってから、眠ったままで起き出してここまで歩いてきたっていうこと?」
 そういう病気だとしても、ピアスのせいだとしても、眠ったままで鈴影さんのお家まで歩いてきたというのはぞっとしない話だった。暗闇の中をふらふらと意識もないままで歩き続けて、よくも無事にここまで辿り着いたものだ。驚きというよりも、むしろ感心してしまう。
「これがもし夢遊病だとしたら、続いて同じようなことが起こる可能性が高い」
「そんな……」
 冷泉寺さんが小さく溜息をつきながら言った言葉に、あたしは思わず声をあげた。冗談じゃないわ、こんなことが度々起こるなんて考えるだけで背筋がざわつく。
「原因が分かるまでは、夜はここで過ごした方がいいだろうな。レオンとも話してたんだが、最初から目的地に居ればそれ以上動くこともないだろう」
 普段より幾分か乱れがちな髪をわしわしとかき混ぜて、冷泉寺さんは小さな欠伸をかみ殺した。ふと気になって、チェストの上の置き時計に目をやると、やはり時刻は陽も昇りきらない早朝だった。五時だなんて、普段のあたしでもまだ眠っている時間だ。
 あたしはその時初めて、冷泉寺さんの雰囲気がいつもとは違うことに気がついた。
 洗いざらしたジーパンと、くったりと皺の寄ったコットンシャツという出で立ちは普段の彼女からすると相当にカジュアルだ。あたしにはそれが、鈴影さんに呼び出されて取るものも取り敢えず慌ててやってきた彼女の誠意に映った。
 あたしは眠そうな彼女の様子に、急に申し訳ない気分になって小さく「ごめんなさい」と呟く。
 不思議そうに首を傾げる冷泉寺さんに苦笑を返して、
「こんな早くから、あたしのために来てくれたんでしょう?」
 と応えると、冷泉寺さんは合点したようにああと首肯した。彼女はやめてくれと緩く手を振って、白いその横顔にニヒルな笑みを浮かべた。
「我らが貴女候補生のピンチとあってはな。出てこないわけにはいくまいさ」
 皮肉気な口ぶりは感謝される気恥ずかしさを誤魔化すためで、彼女があたしたちを思ってくれている事実は変わらずその根本に根付いている。あたしは素直じゃない彼女の反応に微笑ましさを感じて、もう一度小さくありがとうと呟いた。
 そんなあたしたちのやりとりに鈴影さんが吐息するように笑って、立ち上がる。傍らに居た冷泉寺さんの肩に手をやって、労るように声を掛けた。
「続きは一眠りしてからにしよう。冷泉寺、少しゲストルームで眠っていけ」
「そうさせてもらうよ。レオンはもう少しユメミに付いててやってくれ」
「ああ」
 じゃあなと手を挙げて、冷泉寺さんはゲストルームを後にした。
 あたしは重厚な扉の向こうに消えていく彼女の背中を見つめながら、どこか他人事のように今聞いた話を反芻していた。突然聞かされた夢遊病という病気の話も、妙にだるい自分の身体にも現実感はなく、ただ困惑するばかりだった。
「君がうちの庭に現れた時は、本当に驚いた」
 鈴影さんが綺麗な指先を膝の上で組みながら、静かに呟く。あたしはその声に視線を戻しながら、口元を微かに綻ばせた。

 continued.
| short novels. | 01:56 | comments (0) | -
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