an addict*
夢園 1

 風に揺られる月夜に一人、覚束ない足取りで辿るのは誰も知らない夢の国。
 ひらり桃色のネグリジェが翻り、薔薇の香りに包まれる。
 ひとつ儚い夢の中、ふたつ朧な現実の、みっつ静かなバラ園で、
 巡り合うのは誰と誰?


 夢を、見た。
 一筋の光もない闇の中を、当て所もなく彷徨い続ける夢だ。
 自分の足下さえも見えないねっとりとした暗がりを、覚束ない足取りでそれでも進んでいくのは、そうしなければこのままこの空間で朽ちていくばかりだと頭のどこかで感じ取っているからだ。ぼんやりと前だけを見つめて足を出す、その繰り返しはいつ尽きるとも知れない永久運動のようで、少し怖い。上下左右も分からないままに、あたしはただ歩き続けていた。
 助けて、誰かあたしを助けてと思うことはとても安易で、そして楽だ。だからこそ、それに甘んじるのは嫌だと思う。そんなことを繰り返していたら、あたしはきっと自分の力では立ち上がれなくなってしまう。両足をもがれた人形のように、虚ろな目で誰かを待つだけの日々なんて真っ平ご免だ。あたしはいつまでも、あたしで在りたい。
 辿り着かない旅路の向こう側で待っているのは愛しい人で、あたしはそこに向かっているのだと思えばこの状況も辛くはない。夢は、いつか醒めるものだから。
 だから、再び暗がりの中で目を開いた時にそこに広がるのが深夜の闇だということに気付いても、あたしはちっとも不思議だとは思わなかった。それは今まで見ていた夢の続きだと思ったからだ。
「……薔薇の、香り」
 不意に風に乗って香ってきた、強い薔薇の香りにあたしは小さく首を傾げた。
 香りはすれども姿は見えず、濃い闇の中ではそこに薔薇があるのかすらも分からずに、あたしは手探りで周りを探った。少し歩くと、カサカサとした茂みに触れることが出来て、その感触にあたしはよく出来た夢だなあと感嘆の溜息を漏らす。
 色は無いけれど、嗅覚も触覚もある夢を見るのは初めてだ。全てが生々しくて、なのに視覚だけが乏しいのが残念でならないけれど。
「痛ッ」
 本当に薔薇なのだろうかとあちこち触っている内にどうやら棘に触ってしまったらしく、不用意に差し出した指先が微かに痛んだ。じわりと痛み出すこの痛覚も夢なのだろうか。だとすれば何て精巧で残酷な夢だろう。
「……この夢の中で死んじゃったら、本当に現実でも死ぬんじゃないかしら」
 そんな風にすら思えるほど、夢と現実が近い。
「誰かいるのか」
 醒めることのない夢の中でぼんやりと溜息をついたあたしの向こう側から、不意に鋭い声が飛んだ。
 声のする方に目を向けると、バラ園らしいこの空間にぽつりとオレンジ色の灯火が浮かんでいた。ゆらゆら揺れるその光が、ゆっくりとあたしに近付いてくる。
 次第にぼんやりと浮かび上がる灯火の持ち主に、あたしは小さく息を飲んだ。光源の周囲に薄く浮かんでいる薔薇の中に、微かに人影らしい姿が見える。長い髪の、背の高い男の人。
「……鈴影さん?」
 あたしは驚きを隠せずに、囁くようにその名を呼んだ。今まで生きてきた中で、一番大事な愛しい人の名前。
「ユメミ? ユメミなのか?」
 聞き慣れた艶のある声が、するりとあたしの耳殻に入り込む。あたしは目一杯腕を伸ばして、近付いてくる温もりに触れた。首筋に縋り付いて、艶やかな髪の感触を確かめて、ほっと吐息が漏れた。
 ひとりぼっちの闇の中で、やっぱり少し怖かったのかもしれない。呟いた声は少しだけ掠れて、震えていた。
「夢でも逢えるなんて、嬉しい」
 抱きしめた温もりは確かに鈴影さんの匂いがした。いつも彼がつけている涼しげな香水の香りは、不思議とあたしの心を落ち着け優しく宥めてくれる。回された手の感触を背に感じながら、あたしは夜風に冷えた頬を擦り寄せた。
 鈴影さんはそんなあたしを抱き留めてくれながら、訝しげに問う。
「……夢?」
「そう、夢よ。だって本物の鈴影さんは今頃ドイツのミカエリス家に居る筈だもの」
 頬から伝わる体温に、けれど夢でもいいと思いながらろくに何も告げずに旅立ってしまった鈴影さんを想う。
 鈴影さんが忙しくなくドイツに発ったのは、二週間前のこと。相続の残務整理でどうしても鈴影さんのサインが必要な書類があるのだと言って行ったきり、向こうで新たに用事でも出来たのか帰ってくる気配すらない。それを少し寂しく思いながらも、あたしは気丈に振る舞いながら鈴影さんの帰りを待っている。思いを通わせてから、こんなに長い間離れていることがなかったせいか胸にぽっかりと穴が開いたような気分のまま。
「……ユメミ?」
 ほんの少しの沈黙の後、鈴影さんの声がやけに近い所から聞こえた。耳殻のすぐ上、優しい振動に鼓膜が震えた。
「なぁに」
「どうやってここまで来たんだい」
「夢だもの、ふらふら歩いてたら着いたのよ」
「靴も履かずに?」
 片手であたしを抱き寄せて、もう片方の手に持ったランプであたしの足下を照らしながら、鈴影さんが言う。
「気が付いたらここに居たんだもの。……ぇ、きゃあ!」
「……信じられないな。そんな薄着で、しかも裸足でなんて」
「ちょっ、ちょっと、鈴影さん!」
 他愛もなくあたしを抱え上げた鈴影さんは、暴れるあたしの背を優しく叩いて、
「大人しくしていろ。そのままだと足が痛むよ」
 と呆れたように呟いた。

 continued.
| short novels. | 01:55 | comments (0) | -
コメント
コメントする









CALENDAR
S M T W T F S


CATEGORIES
SELECTED ENTRIES
ARCHIVES
OTHER
count : hits!