an addict*
a cold remedy.


 ひどく寒い朝だった。
 低く重く垂れ込めた分厚い雲の下を、指先も悴むほどの寒風が吹き荒んでいる。窓枠がカタカタと揺れる音を聞きながら、あたしは小さく吐息した。
 ここ数日の冷え込みに耐えきれず風邪をひいてしまった弟たちは、昨日から続いている発熱に苦しそうな寝息を立てながら眠っている。看病しやすいように一階に寝床を移して様子を見ているのだけれど、熱は一向に下がる気配すら見せないままだ。
 昨夜からの看病でろくに眠っていない頭はぼんやりと重く、いつもより強くしている暖房の熱気に顔が火照っている。
 コットンシャツの上に羽織っていたフリースを脱いでソファに寝転がると、どっしりとのしかかる倦怠感にすぐにでも眠ってしまいそうだった。そうして隣の和室で寝ている弟たちの様子を気にしながら、少しだけと目を閉じる。いつもはもの寂しく思う静寂も、今は逆に心地いい。
 うとうとと眠りに落ちかけたあたしの意識を寸前で繋ぎ止めたのは、来客を告げるインターホンだった。
「……ッ、はいはいはーい、今出まーす!」
 無機質な電子音にびくりと身体を竦ませて、飛び起きる。誰とも知れない玄関の訪問者へ向かってとっさにそう返して起き上がると、その声に目を覚ました天吾が和室から小さく顔を出していた。
「起こしちゃった? ごめんね、寝てていいわよ」
「……んぅ」
 足下に縋り付いた小さな身体を苦笑しながら抱き上げて、インターホンの主をこれ以上待たせるわけにもいかずにそのまま玄関へと向かう。天吾を片腕に抱いたままやっとのことで扉を開けると、そこには両手に大きな紙袋を持った鈴影さんが優しく微笑みながら立っていた。
「鈴影さん!」
「やあ、電話を貰ったから見舞いにね」
 驚いたあたしが思わず声を上げると、鈴影さんは精悍で美しい笑顔を浮かべて、手に持っていた袋を小さく掲げた。
 一目で上等だと分かるカシミアのコートは、よく見るとしっとりとした朝霧に濡れている。話す度に凝る吐息がコートに映えて、ひどく寒そうに見えた。
「取り敢えず、中にどうぞ」
 立ちっぱなしで待っていてくれた鈴影さんを慌てて玄関の中へと迎え入れて、二人して取り敢えず上がり框に座り込む。彼が持ってきてくれた紙袋の中には、「二人を置いては、買い物にも行けないだろうから」と日用品や食べ物がこれでもかという程詰め込まれていた。
「スポーツ飲料に果物、ゼリーにプリン、アイスに熱冷まし用の冷却シートまで……。これ全部鈴影さんが?」
 必要かつ無駄のないそのラインナップに、思わず行儀悪く中を覗き込んで驚きの声を上げる。鈴影さんは苦笑しながらゆるく頭を振った。
「いや、家の者に頼んだよ。オレは見舞いといったら果物か花ぐらいしか思いつかなかったから」
 まあでも普通はそうよねえ。でも、今日はどうしても買い物に行かないといけないと思っていたから、正直このお見舞いの山はとても嬉しいものだった。一日二日は大丈夫そうなその量に、鈴影さんの気遣いが垣間見えて、あたしは素直にありがとうございますと頭を下げる。
「構わないよ、一人で二人の面倒を見るのは大変だろう? オレに何か出来ることがあったら言ってほしい」
「そう言って貰えるのは嬉しいけれど、風邪の看病ぐらいならお手の物よ。って言いたいところだけれど、本当のところはちょっと神経質になっているだけなの。去年天吾が風邪をこじらせて入院したことがあって」
 あの時は短期の入院ですんで症状もそう大したものではなかったけれど、あの背筋がすうっと冷たくなるような感覚はもう二度と味わいたくはない。幼い弟に対する罪悪感で、過剰に看病してしまうのは仕方がないことだと自分でもそう割り切ってしまっている。それで症状がひどくならないなら、そのほうが余程いい。
 ふと、鈴影さんの視線が腕の中の天吾に留まる。
「熱が高くて気分が悪いのか、ぐずっちゃって」
 熱い額を肩口に押しつけてはむずがるように声を漏らす天吾の背を、抱いたままで何度か撫でる。手のひら越しに感じる幼い体温は、まだひどく高い。
「外、寒かったでしょう? 良かったら上がってください。コーヒー淹れますから」
「いや、見舞いのつもりで来たから迷惑にならないうちに帰るよ。……でもこんなに熱が高いとは思わなかったな、可哀想に」
 汗で貼り付いた天吾の髪をきれいな指先でよけてくれながら、鈴影さんが溜息のように呟いた。先刻まで外にいた鈴影さんの冷えた指先が余程心地よかったのか、うつらうつらしながらむずがっていた天吾が、不意に鈴影さんに向かって腕を伸ばした。頼りない小さな腕がふらふらと揺れて差し出されるのを、鈴影さんはどうしたらいいのか分からないように困った顔で見つめている。
「……良かったら、抱いてやって貰えます?」
 あたしは小さく微笑んで、それでもまだ少し躊躇っている鈴影さんにそっと天吾を抱き渡した。
 幼い子供と触れ合うことに慣れていない鈴影さんはぎこちなくその腕の中に天吾を受け取り、落ち着き場所を探して身じろぎする天吾の背に用心深く腕を回した。あたしはそんな風に穏やかに子供と向き合う鈴影さんを、ひどく愛おしくそして切なく眺めた。
 こんな些細な触れ合いすら知らない彼の過去を思って胸を痛めるのは、単なるあたしのエゴイズムに過ぎない。そんなことは当たり前に分かっているのに、いつも争いの場に身を置いている彼がこうして優しく微笑んでいることがまるで奇跡のように思えて、たまらないのだ。
「思ったより重いんだな」
 いつも軽やかに跳ねているからもっと軽いのかと思っていたと、高そうなコートに顔を埋めた天吾の背を優しく叩きながら鈴影さんが呟いた。
「子供は眠ってしまうと、重くなるから」
 思わずといった風に呟いたその声に胸が詰まって、あたしは声を震わせないように慎重に応えた。気を抜くと泣いてしまいそうだった。
「コーヒー淹れますね、リビングへどうぞ」
「ああ」
 鈴影さんは今の地位を手に入れる為に、一体どれだけのものを犠牲にしてきたのだろう。幼少期に当たり前のように与えられる筈の幸福を彼は何一つ知らないままで、知らないからこそ与えることに戸惑い躊躇う。けれど、知らないことなら学べばいいのだとあたしは思う。一つずつ、一つずつ、そうして蓄積された幸福の経験はきっと彼の中の孤独な闇を照らすだろうから。
(そうすればきっと、もう寂しくなんてならないから)
 ミルで丁寧に碾いた豆で淹れたコーヒーを鈴影さんの前に置く頃には、天吾は彼の腕の中でぐっすりと眠っていた。まだふうふうと熱い寝息を漏らしてはいたけれど、表情はさほど苦しくなさそうで小さく吐息する。この分なら、明日か明後日には全快だろう。
「すみません、重かったでしょう?」
 天吾を受け取ろうと腕を伸ばすと鈴影さんは小さく笑ってそれを制し、ゆっくりとソファから腰を上げた。
 癖のない長い髪がさらりと揺れて、彼の美しい横顔を露わにするのをあたしはぼんやりと眺めていた。翳りのない彼の笑顔を見るのは本当に久しぶりだと思いながら。
「オレが連れていくよ。あっちの部屋?」
「ええ、すみません」
 和室の襖を開けて、鈴影さんが天吾を寝かしつけてくれるのを見ながらあたしはふと既視感のようなものを感じて立ち止まる。
 こんな光景を見たことがあるような気がする。でも鈴影さんじゃなくて……。
「……ッ」
 埋もれた記憶を辿るように巡る、思考の先端がふと隠されていた過去を探り当てた。生まれたばかりの双子の赤ん坊と、彼らを起こさないようにそっとその頬に触れる大きな手の記憶はきっとそう遠い昔のことじゃない筈なのに、濁流のように過ぎていった三年の月日がそんな些細な記憶さえも曖昧に濁してしまっていることに気付いて、あたしは少し愕然とした。既視感なんかじゃない。これは過去の記憶だ。リビングで笑うママと、ベビーベッド越しに寝顔を楽しんでいるパパのはにかんだ目元が、今は鈴影さんに重なって滲んだ。
「……っ、ふ……っ」
 思わず漏れてしまった声に、あたしは慌てて自分の口元を覆って蹲る。突然零れだした涙に驚いて、ただどうすることもできずに近寄ってくる鈴影さんの足音を聞いた。
「ユメミ?」
 肩口に触れた、穏やかで温かいその体温に思いがけず彼を見上げる。涙はただ静かに流れ落ち、声も出さずに泣き続けるあたしを鈴影さんはどこか痛ましそうな顔で抱きしめた。
 意図的に封じ込めていた過去の記憶が、些細なきっかけで溢れ出すのは自然なことだったのかもしれない。ママが亡くなってから三年の月日が経ち、大きすぎるその喪失感を慣れない日常に紛れ込ませて誤魔化していた、そのツケが今になって一気に押し寄せてきたのだ。いつまでも覚えておきたいはずの幸せな記憶を、思い出さないように心の底に留めておき続けるのはどう考えても無理が過ぎることだったから。
 力強く抱き留めてくれた腕を掴み、みっともなく涙の流れる顔を見られたくなくて首にかじり付くように両腕を回す。止まらない涙が鈴影さんのシャツに染み込んでは消えていった。
「過去を、見たの。生まれたばかりの弟たちと、嬉しそうなパパの背中を微笑みながら見つめてる、ママの……」
 かお、と声を詰まらせたあたしの背を、鈴影さんの大きな手のひらがそっと慰めるように撫でる。鈴影さんは何も言わずにただあたしを抱きしめていた。あたしもそれ以上は何も言わずに、鈴影さんに身を委ねていた。
 お互いに欠けているものを埋めあうように、あたしたちは寄り添った。
 鈴影さんは、穏やかに子供らしく過ごすはずだった幼少時代を、あたしはもう少しの間ママに甘えられるはずだった普通の日々を共に失ってしまっていたから。彼に与えられなかった優しい過去や亡くなったママを取り戻すことは出来ないけれど、足りない何かを埋め合うことなら出来るのではないかと、あたしは鈴影さんの腕の中でそう感じていた。
 将来、もしあたしたちがパパやママのように家族になれたら、こんな寂しさや切なさは消えてなくなるのだろうか。得られなかったものを悲しんで、過去に泣くことも、もう。
「君がもう、泣かずにすむような未来を」
 湿った声が、ゆっくりと頭上から降り注ぐ。あたしは鈴影さんの肩口に顔を埋めたまま、黙ってその先を待った。
「一緒に作っていけたらいいと、心から思うよ」
 背中に回された腕に、何かを決意したように一瞬だけ力がこもる。あたしはその声音に何か満ち足りたものを感じて、そっと瞳を閉じた。
 なぜだか不意に、もういい、と思ったのだった。もういい、もう何も怖くはないのだ、この人がいれば。幸せになれる気がする。そんな予感がした。
 大事なことは一つだけ、誰も不幸になることなくあたしたちが幸せになること。きれい事だけれど、それ以上でもそれ以下でも嫌だ。
 それがこの優しい人とできるなら、きっとこんな幸せなことはない。
 きっと。

 end.
| short novels. | 02:03 | comments (0) | -
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