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束の間の休息 「っくしゅん!」 「ユメミちゃん、大丈夫?」 ジャガイモの皮を剥きながら大きなくしゃみをしたあたしに、ちょうどキッチンを通って二階に上がろうとしていた天吾が足を止めて、心配そうに聞いてきた。 うう、やさしさが身に染みるわ……。 というのも、あたしはここ2、3日ずっと風邪の前兆のような症状が現れていて、どうにも体調が悪いの。 でも家事は休めないし、学校もテストがあるしでろくに安静にもしていられなくて、風邪薬は飲んでるんだけどますます悪化しているとしか思えないのよねぇ……。 昨日なんて夜にこっそり熱を計ってみたら、なんと三十八度五分っ。 上がっているのが怖くて、今日は計ってないくらい。 だって風邪なんてひいてあたしが寝込んだら、誰がパパたちのご飯を作ってくれるのよ。 パパなんて、なーんにも出来ないんだからね。 そんなわけで、熱のせいでだるい体をだましだましこうしてお夕飯を作っているのだった。 働く女子高生は大変なのよ、うっうっう。 階段の下でまだ心配そうにこっちを見ている天吾に苦笑して、剥きかけのジャガイモと包丁をまな板の上に置くと、ちょいちょいと天吾を手招いた。 「何?」 軽く首を傾げながら、小走りで駆け寄ってきた天吾の口にエプロンのポケットから取り出した飴を放り込んで、よしよしと頭を撫でてあげる。 こういうスキンシップって大事よねっ。 「心配してくれてありがと。あたしは大丈夫よ。それより、お夕飯の準備が終わったら、ロッジに行ってくるからお留守番しててくれる?」 こんな時だし、本当ならロッジはお休みしたいんだけど、光坂くんに借りてる本を返さなくちゃいけなくて行くことにしたのだった。 「ん、分かった」 もごもごと頬を膨らませながら喋る天吾が可愛くて、思わずツンと頬をつついて笑ってしまった。 なんだか頬袋に食料を入れてるハムスターみたいで可愛いわ。 「ユメミちゃん!」 もう一度つつこうと思ったら、きゅっと眉を吊り上げた天吾に怒られた。 ちょっとぐらい、いいじゃないのよぉ……。 スキンシップよ、スキンシップ。 「ボク、二階で本読んでくるね」 そう言うと天吾はくるりと背を翻して、二階に上がっていく。 最近子供扱いすると怒るのよねぇ……。 反抗期かしら。 あたしはそう思いながらくるりとキッチンに向かい、剥きかけのジャガイモに手を伸ばした。 「さて、と。さっさとお夕飯作ってロッジに行かなくちゃ」 と、非常時には簡単便利なカレー作りを再開させたのだった。 結局夕飯に手間取ってしまって、家を出ることが出来たのがきっかり集合時間っ! うわーんっ、完全に遅刻だわっ。 取るものも取り合えず家を出てきてしまったけれど、まぁ天吾がお留守番をしてくれてるから大丈夫よね。 火の元と戸締まりだけはきっちり確認してきたし。 ってそんなこと考えてる場合じゃないのよ、遅刻よ遅刻っ。 少しでも早く着こうと全速力で走ってるんだけど、鈴影さんのお家ってすごく広くて、全然ロッジに着かないの。 無駄に広い家ってこれだから嫌いよっ、ゼィッゼィッ。 「お、遅れちゃってごめんなさいっ!」 やっと着いたロッジのドアを勢いに任せてバンッと開けると、皆が一斉に顔を上げてこっちを見た。 鈴影さんが奥で苦笑してるのが目に入って、あたしはちょっと恥ずかしくてそっと後ろ手でドアを閉めて中に入る。 「遅っせぇよ、ユメミ」 ちらり、と本から視線を上げてヒロシが言った。 「ごめんってば。お夕飯に手間取っちゃって……」 「ユメミは家事をしているんだから仕方がないよ」 そう言いながら本をパタンと閉じて、光坂くんが微笑んだ。やっばり光坂くんは優しいわ……。その点ヒロシなんか「遅い」の一言だもの。 もうちょっと気遣いっていうものが出来ないのかしら、まったく。 ムッとした顔で光坂くんを見ているヒロシを睨み付けて、ふと周りを見渡すと、いつもソファに座っている筈の冷泉寺さんが居ない。 彼女が遅刻なんてする筈無いし……。 「ねぇ、冷泉寺さんは?」 持ってきたカバンを椅子に置いて、横に居る光坂くんに聞くと、光坂くんはすっと視線をキッチンに向けて、 「多分、お茶を入れてくれてるんだと思う。さっきノドが乾いたってキッチンに入って行ったから」 と言った。 いつもはあたしがお茶を入れてるんだけど、今日は遅刻したから冷泉寺さんがやってくれてるんだわ。 あたしは慌ててキッチンに駆け込んで、冷泉寺さんを探した。 だって、遅刻した上にお茶まで入れさせるのはねぇ……いくらなんでも悪すぎるわ。 「遅刻してごめんなさい! 後はあたしがやるわ」 冷泉寺さんはキッチンの戸棚から紅茶の種類を選んでいたところで、キッチンに入ってくるなりいきなり謝ったあたしに苦笑して言った。 「いいさ、かまわん。いつもお前にさせてばかりでは心苦しいからな」 「でも今日はあたしが遅刻したんだから、あたしがやるわ。せめてもの罪ほろぼしよ」 笑いながらそう言って、冷泉寺さんが選んだ紅茶缶を受け取った瞬間、あたしは自分の体がぐらりと傾いだのを感じた。 冷泉寺さんがぐいとあたしの腕を掴んで、自分の近くに引き寄せたせいだった。 急に引き寄せられたせいで体勢が崩れ、冷泉寺さんにもたれ掛かるような格好になってしまって、あたしは慌てて体を起こした。 いくらがっしりしていて受け止めてくれそうだからって、女の子にもたれ掛かるわけにはいかないわよねぇ。 「わっ、何するのっ」 あたしが驚いてそう言うと、冷泉寺さんは綺麗な眉をきゅっと寄せて無造作にあたしの手を握り、かっと瞳を見開いた。 「お前、なんでこんなに手が熱いんだっ!」 えっ? 手が熱い? そうかしら。 あたしは空いた方の手で自分の頬に触ってみたんだけど、そう熱いとは思えなかった。 「少しでも早く来ようと思って走ったからじゃないかしら。でもそんなに熱くないわよ」 あたしがそう言うと、冷泉寺さんはあたしの頬に触れ、額に触れた。 触れた手は冷たくて、妙に心地がよかった。 冷泉寺さんて平熱が低いから、いつもひんやりとした手をしてるのよねぇ。 あー、冷たくて気持ちいい。 額に触れた手はすぐに離れ、冷泉寺さんは溜息を着き、あたしの体を解放しながらこう言った。 「確実に熱が出てる。それもかなり高熱だ。早く家に帰って、ゆっくり休め」 あたしは驚いて冷泉寺さんを見た。 そりゃ、昨日は結構熱があって驚いたけれど、今日はそんなにしんどくないし全然動けてるのよ。 冷泉寺さんてば以外と心配性なんだわ。 「そんなに心配しなくても大丈夫よ。主婦は頑丈なんだから」 けらけらと笑いながらそう言って、水の入ったヤカンをコンロに置いた時だった。 重いものを持ったせいか、急に立ちくらみのような衝撃があたしを襲い、自分で自分の体を支えることが出来なくなってしまったのだった。 あたしは目の前が真っ白になったのを感じ、それと同時にふっと意識が遠くなった。 「ユメミっ!」 慌てた声がして、傾いだ自分の体が抱きとめられたのを感じた。 冷泉寺さんがとっさに抱きとめてくれたらしかった。 意識が遠くなったのも一瞬だったようで、真っ白だった視界はすぐに色を取り戻す。 「あ……ありがと。ビックリした……」 震える声であたしがそう言ったのと、冷泉寺さんの声を聞いた鈴影さんがキッチンに駆け込んできたのが同時だった。 「どうしたっ!?」 「ユメミが倒れた。熱があるから帰って休めと言った直後にこれだ。まったく、主婦ってのは自分を過信しすぎる人種のようだな」 皮肉げにそう言う冷泉寺さんにあたしは返す言葉もなく、ただ言われるがままになっていた。 だって、いきなりこんな風になるとは思わないじゃないのよぉ……。 「レオン、ユメミをベッドルームに運んでくれ。結構熱が高いようだから、こじらせると厄介だ」 冷泉寺さんは自分が支えていたあたしの体を鈴影さんに委ね、床に着いていた膝を払いながら言った。 「大丈夫なのか?」 鈴影さんはあたしの顔を見て、心配そうに言った。 「見たところただの風邪だ。すぐにどうこうなるようなもんじゃないさ。取り合えず熱さえ下げれば大丈夫だろ」 冷泉寺さんはそう言って立ち上がり、キッチンの戸棚から大きなボウルを取り出して水を張り、その中にガラガラと大量の氷を放り込んだ。 それを右手で持つと布巾棚から真新しい布巾を何枚か掴んで、それもボウルの中に放り込んだのだった。 豪快だわ……。 「後、解熱剤と着替えが欲しい」 鈴影さんは注意深くあたしの体を抱き上げ、軽くうなずいて、口を開いた。 「着替えはロッジにある。解熱剤の方は館に電話して持ってこさせよう」 「まったく、手のかかるお姫さんだ。自分の体調管理も出来ないとはな」 冷泉寺さんはベッドルームに向かって歩き出しながら、軽くあたしを睨んでそう言い、あたしは申し訳無さにしゅんとした。 「最近いろいろと忙しかったからゆっくり休めなかったんだろう。気付いてやれなかった俺にも責任はあるよ」 鈴影さんは苦笑しながらそう言ってくれたけど、結局はあたしが悪いのよ。 先週から具合が悪いのは分かってたんだし、早い時点でお医者さんに行って診てもらうべきだったんだわ……。 「迷惑かけてごめんなさい……」 しおしおと謝ったあたしに鈴影さんは微笑みを返してくれ、冷泉寺さんは照れ隠しみたいにふんと横を向いた。 そのままリビングに入るとヒロシと光坂くんが驚いたように声を掛けてきた。 そりゃそうよね、あたしも誰かが鈴影さんに抱かれて部屋に入ってきたらビックリするもの。 「どーしたんだよ、ユメミ」 「ユメミ、大丈夫?」 「邪魔だ」 冷泉寺さんは横から心配そうに見ているヒロシたちをじろりと一蹴すると、ボウルを持ったままさっさとベッドルームに入って行った。 「風邪らしい。冷泉寺がいるから大丈夫だ。ああ、今日の勉強会は中止にしよう」 鈴影さんがそう言うのを聞いて、あたしはビックリして言った。 「鈴影さん、あたしはおとなしく寝てるから、勉強会やってください」 鈴影さんだってすごく忙しいのを調整して勉強会の日を取ってるんだもの。それを中止にさせちゃうのは悪いわ。 そう思って言ったんだけど、鈴影さんは首を横に振ってあたしの申し出を却下した。 「学期末のテストが終わった直後だし、皆も疲れているだろう。ユメミの風邪もきっとそのせいだ、今日は中止にして、ゆっくり休んでもらいたい。……気付いてやれなくて、ごめん」 そう瞳を伏せて謝った鈴影さんにあたしは慌てて首を振った。 「鈴影さんのせいじゃないわ。あたしが自分の体調を管理を出来なかっただけのことよ。テストの疲れもあったけど、体調はその前から悪かったの。あたしが不精をして、病院に行かなかったから、こんなに酷くなっちゃっただけで……」 あたしが力無くそう言うと、鈴影さんはちょっと笑って口を開いた。 「じゃあ、どちらも悪いということで痛み分けだ。それでいいね?」 あたしはこくりと肯いて、少し笑った。 鈴影さんはその精悍な横顔に微かに微笑を浮かべて、あたしの体を抱えなおしベッドルームに入って行く。 意識するとどっと疲れが出て、あたしはもう目を開けているのも辛くて、ただされるがままに運ばれていた。 ふと気付くと、あたしはロッジのベッドルームに居た。起き上がろうとしたんだけど、なんだか体中が軋むように痛んで上手く起き上がることができなかった。 仕方なくまだまともに動く首を動かしてベッドサイドに目をやると、そこには椅子に座ってうたた寝をしている鈴影さんが居て、あたしは少し驚いた。 だってねぇ……滅多に人前で眠ったりしない人だもの。こんな間近に寝顔が見られるなんて思わないわよね。 鈴影さんは長い足を持て余すように優雅に組んで、膝の上に厚い皮表紙の本を置いていた。 ……読書の最中に眠くなって寝ちゃったのかしら。でも、鈴影さんのうたた寝って珍しいわ……。 閉じられた瞳を彩るまつげは長く繊細で、すっきりとした面立ちはまるで王子様みたい。 と、思わずまじまじと見ていると、あたしの視線に気付いたのか鈴影さんがゆっくりと瞳を開いた。 「ああ……、看病のつもりが少し寝てしまっていたみたいだ」 軽く頭を振って眠気を払うと、膝の上の本をサイドテーブルに置いて、ぐいと身を乗り出した。 大きな手がひたりとあたしの額に触れ、あたしはその余りに唐突な動作にビックリしてしまった。 だってねぇ……、鈴影さんに看病して貰えるなんて思ってもなかったもの。 余程ビックリした顔をしていたのか、鈴影さんは優しく苦笑しながら手を放した。 「まだ少し熱があるみたいだね。今日はここでゆっくりと休むといい」 その優しい申し出に頷きかけて、あたしははっと壁に掛けてある時計を見遣った。 きゃあっ! もう夜の九時よっ。天吾達のご飯っ! 「す、すみません! あたし帰りますっ」 どうしよう、きっとお腹空かせて待ってるわよね……パパが帰ってる筈は無いし……。 ごめんね、今すぐ帰るからね! 慌てて体を起こしてベッドから降りようとすると、横から逞しい腕が伸びてきて強引な動作であたしの体を掠い、再びベッドへと押し戻した。 「まだ熱も下がっていないのに、駄目だ。せめて三十六度まで下がらないと、ここから出せない」 冷泉寺にもそう言われているしね、と鈴影さんが言った。 あたしはその逞しい腕の下で必死でじたばたと藻掻いたけれど、熱のせいかあまり力が入らず、その腕の中から抜け出すことが出来なかった。 「で、でも天吾と人吾がッ! お腹空かせて待ってると思うんです、早く帰ってご飯食べさせてあげないと……ッ」 あたしの心の中は複雑よっ。 鈴影さんに看病してもらえるなんてこれっきりかもしれないんだから、たっぶりと堪能したいというのが半分。 でも、お腹を空かせている弟達を見捨てるなんて出来ない! というのが半分。 その二つを天秤にかけて、どっちが大事かと考えると迷わず天吾達なのよね……恋する乙女になりきれない主婦魂……。 鈴影さんと格闘してでも帰るつもりで再び起き上がろうとすると、それに気付いた鈴影さんがなんと、のっしりとあたしの寝ているベッドの上に上がってきたのよっ。 どういうことっ!? 嬉しいけど、嬉しくないっ。 あたしは家に帰らなきゃいけないのよっ。 「あ、あの……っ」 「天吾くん達なら、俺の家に来てるよ」 え? 「いつもお父さんの帰りが遅いと言っていたから、うちで面倒を見ようと思って連れてきたんだ。夕飯ももう食べ終わって、今はうちの使用人達と遊んでいるよ」 えええ! 「す、すみません……迷惑かけちゃって……」 あたしは色々考えて動いてくれている鈴影さんに申し訳なくて、シーツの端を掴んで俯いた。 鈴影さんは、あたしの固く握った拳の上からそっと手を重ねて優しく呟いた。 「ユメミの悪い癖だ。全部自分一人で背負い込んでしまう」 美しい漆黒の瞳がゆらりと揺らいだ。 ベッドに片膝を乗せてあたしの腕を掴んでいる鈴影さんの髪が、さらりとあたしに腕に触れて、あたしは胸のドキドキが聞こえないようにそっと胸の上に手を乗せた。 まっすぐで艶やかで、とても綺麗な鈴影さんの髪。 あたしはうっとりとその髪の感触を確かめながら、口を開いた。 「あたしがいろんなものを一人で背負い込んでしまうのは、他に頼る人が居ないから。ママが亡くなってから、なんでも一人でこなさなくちゃいけなかったし、そう望まれてきたわ。そして、それをすることが大して苦痛じゃなかったから、それはあたしの中で普通になってしまったの」 鈴影さんはそんなあたしの頬にそっと触れながら、静かな口調で呟いた。 「俺には頼ってくれない?」 あたしはビックリして首を横に振った。 そんなこと、出来る筈がない。 「駄目よ、鈴影さんは忙しいもの。沢山守らなければならないものがあるし、あたしのことなんかでこの手を煩わせたくないわ」 頬を撫でてくれている手にそっと手を添えて、言った。 だってそうよ。 鈴影さんの肩は、今この瞬間にもとても大きなものを背負っている。 それはミカエリス家だったり、銀バラだったり、鈴影さんがとても大事にしているもので。 彼は表に出さないけれど、その重圧は計り知れないものだと思う。 だからそれ以上に鈴影さんの重荷になることはしたくない。 今日は迷惑をかけちゃったけど、今度からはそんなことがないようにしっかりしなくちゃ。 そう思っていると、あたしの周りの空気がふわりと動き、鈴影さんの体が完全にベッドの上に乗っかっていた。 「?」 不思議に思って軽く首を傾げていると、鈴影さんの顔がだんだんと近付いてきた。 え? ええ? 「ん……ッ」 形の良い唇があたしの唇に重なり、あたしはその眩暈がするような情熱的なキスを静かに受け止めた。 角度を変えて、何度も何度も貪るように口づけられていると、次第に息が苦しくなって切ない吐息が漏れ始める。 鼻にかかった甘えたような声に、あたしは思わず恥ずかしくなってしまい、鈴影さんの胸元をぐいと押しのけて顔を反らした。 心臓が止まってしまいそうな程激しい動悸を聞かれないように、胸に手を当て、まだ微かに乱れる吐息で小さく呟く。 「鈴影さん……」 見上げた彼の瞳は、拭いきれない程の愛情と情熱に満ちていた。 切なそうに細められた瞳は雄弁にあたしが欲しいと語っていて、あたしはその情熱を直視出来なくて、そっと視線を逸らした。 「君がいつもそうして自分一人で苦しんできたのだとしたら……。そしてそれを今まで俺は気付かずにいたのだとしたら、たまらない」 鈴影さんはあたしの髪に顔を埋め、その厚い胸にあたしを抱き込んだ。 力強い拍動が驚くほどの近さで聞こえる。 あたしはその幸福さに、思わず体を震わせた。 「……気にしないで。そう言っても、鈴影さんは気にしてしまうのね。とても優しくて、強いから」 あたしはそう言って、鈴影さんの背に腕を回した。 広くてがっしりとした体は、鈴影さんの努力の証だ。 幼い頃から総帥になる為に努力して、総帥になってからもその重責を負う為に努力し続ける、あたしの愛しい人。 「俺は強くありたいといつも思っているけれど、自分が思っているほど上手くいかないことの方が多い」 「……」 「こんなに小さくて儚い君の体を思いやることも出来ず、君の苦しみを分かってやることも出来ない自分が、酷くもどかしいよ」 あたしはそれには答えず、鈴影さんは弱っているのだと悟った。 いつも気丈で気高く、自分に自信を持って生きているこの人を、こんなにも弱らせてしまうものとは何だろう。 いくら考えても分からなくて、あたしは鈴影さんの髪をゆっくりと撫でながら口を開いた。 「鈴影さんがあたしの苦しみを理解出来ないのは、当たり前だわ。だって鈴影さんはあたしじゃないんだもの。あたしの苦しみは、あたしにしか理解出来ないと思う」 鈴影さんはゆっくりと上半身を持ち上げて、じっとあたしの瞳を見つめた。 眼差しはとても鋭く、けれど何処か優しさを含んでいるようにも見えた。 「あたしはあたしで、鈴影さんは鈴影さん。それぞれにそれぞれのするべきことがあって、それは決して侵すことの出来ないものよ。あたし達はお互いを愛しているからこそ、違う存在であることを認めなくてはならないわ」 そんなことはきっと、鈴影さんも分かっているんだろう。 だけどあたしは、こうして口に出すことが必要なのだと思った。 心で思っているだけでは伝わらないものもあるんだから。 鈴影さんはあたしのその言葉に小さく笑って、深く息を吐いた。 「いつも思うよ。君の持つ強さに、俺は憧れているんだと」 「……あたしは鈴影さんの強さが羨ましいわ。どんな時でも他人を思いやることが出来る、そんな強さが欲しいと思う」 あたしと鈴影さんは視線を合わせて、微笑んだ。 互いを羨ましいと思いながらも、きっと思いは同じなのだと思う。 鈴影さんはゆっくりとあたしの上から体を起こし、トンと床に降り立った。 「ゆっくりお休み。まだ充分に熱が下がっていないようだし、無理はいけない」 そう言って、大きな手でさらりとあたしの髪を撫でてくれた。 あたしは無くなってしまった重みが淋しくて、また椅子に座って看病してくれようとした鈴影さんの袖口をそっと引いた。 「ん?」 「少し、我が儘言ってもいいですか?」 「いいよ。何なりとどうぞ、お姫様」 「横で、……一緒に寝て欲しいの。そうしたら、ちゃんと眠るから……」 あたしの申し出に鈴影さんは驚いたように目を瞠った。 それを言うのはとても恥ずかしかったけれど、でも熱でぼんやりとしている体で一人で眠るのはとても淋しかった。 暖かな温もりと重みの感触に、とても安心することを知ってしまったから。 「駄目なら……、いいの。ごめんなさい、変なこと言って」 言ってしまってから、後悔する。 それはどんな時でも同じで、感情のままに口を開くことがどんな結果を生むのか、知っているのに。 「いいよ。それで君が眠れるというなら」 鈴影さんの優しい声に、何故かとても安堵した。 自分が出したとんでもない提案が受理されたことを知って、あたしは信じられない思いで鈴影さんを見上げた。 「君がいつも幸福で居るのが、俺の幸せだからね。君の為なら、何でもしてあげたいと思うよ」 鈴影さんは、それは綺麗な微笑みであたしにそう言った。 あたしは溢れんばかりの幸福に、パジャマの胸元を握りしめた。 幸せだと思った。 鈴影さんはそんなあたしを優しく抱き締めて、包み込んでくれ、あたしはその温もりに身を委ねてそっと瞳を閉じた。 本当の幸せはいつだって身近にあって、あたしはその泣きたいくらいの幸福に今まで気付かないでいたのだった。 柔らかな腕と、交じり合う体温。 互いの吐息にそっと口付け、静かな朝を思う。 明日、目が覚めたら、 隣で眠る愛しい人に、そっと微かなキスを贈ろう。 |