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10:腕 「……ねぇ、鈴影さん」 あたしは腕枕をしてくれている方の鈴影さんの指を、ちょいちょいと肩先で弄びながら、小さな声で呼び掛けた。 鈴影さんの腕の中にいたあたしは小さく身じろいでそこから抜け出し、鈴影さんの厚い胸板の上に向かい合うように乗り上げた。 「あの時、あたしは本当に死んでもいいと思ったのよ」 ぽつりと何の感情も込めずにそう言ったあたしは、火照る頬をそっと鈴影さんの胸に当てた。トクトクと刻まれ続ける鼓動、この力強い拍動をあたしはあの時どれほど切実に望んだだろう。叶わないかもしれないと一度は諦めて、それでも踏み出したあの一歩を、あたしはきっと一生忘れないだろうと思う。目が眩むほど眩しく、誇らしいあの気持ちを。 「鈴影さんが総帥として生きられるなら、本当にそうしてもいいと思っ」 続く言葉を紡ぐ前に、ぐるりと世界が反転した。 甘えるように頬を擦り寄せていた鈴影さんの逞しい胸が今は自分の上にあって、ああ体勢が入れ替わったのだなと気付く。あたしは突然の行動に驚いて、軽く首を傾げた。 「もしもあの時、ユメミがオレを庇って死んでいたなら、オレはきっと君を追ってこの命を絶っていただろう」 鈴影さんはその漆黒の瞳に微かな翳りを浮かべて、自分の心臓の辺りを押さえた。 そこには先刻まであたしが耳を付けていた愛しい拍動があり、あたしは小さく息を飲んで、無意識に首を振った。 そんな、そんなことが。 (万が一にもあってはならないことなのに、どうしてその一言がこんなにも嬉しいんだろう) 「君がオレの為に死んでもいいと言ったのと、同じ事だ」 両手で顔を覆って泣き出してしまったあたしの頭上から、そんな声が降ってくる。聞き慣れた優しい低音が耳朶を擽り、言葉でそっとあたしを包み込む。優しい、優しい抱擁。愛しくて、でも切なくて、どうしていいか分からなくなる。 「……そんなこと、言わないで」 覆った掌の間からこぼれ落ちる涙を唇で拭った鈴影さんの吐息が、微かに頬にかかる。 あたしは小さく、掠れた声でやっとそれだけを呟いて、こくりと吐息を飲んだ。嗚咽が漏れてしまいそうで、とても、とても怖かった。 「ユメミが居ない世界では、意味が無い。たとえそれが、君が与えてくれたものだとしても」 「…………」 「だから、頼む。もう二度と、オレを置いていくな」 真っ直ぐにあたしを見据える瞳が、ゆらりと揺らいだ。鈴影さんは辛そうに眉を顰めて、あたしから視線を逸らし顔を背けた。その瞳を濡らすものを、他の誰にも見せないように。 彼はいつも、こうして一人で泣くのだろう。耐えきれない孤独に、心を締め付ける悲しみに。あたしはそうして顔を背けた鈴影さんを心から愛しいと思い、同時に暖かな胸の中に包み込んであげたいと思った。きっと、孤独だった幼年時代から彼が手に入れられなかった母親の慈しみが、今の彼に必要なのだと思ったからだ。 あたしは流れ落ちる涙に濡れた頬を鈴影さんの首筋に埋め、そっとその身体を引き寄せた。 乱れたシーツの上で少し冷えた二人の身体がぴったりと重なり、あたし達は今も拍動を続ける心臓を限りなく近付けて互いを抱いた。 「もう、しないわ。鈴影さんを残して死んだりはしないから、だから鈴影さんも誓ってちょうだい。もし死ぬ時はあたしを連れて行くって」 「……ああ、誓う。オレが死ぬ時は、君を一緒に連れて行く」 「鈴影さん……」 嬉しい、と呟いた声は音にはならず、ゆっくりと流れる大気に溶けた。 どちらからともなく近付いた唇は、そっと触れるだけのキスを交わしてすぐに離れた。情を交わし合うキスではなく、どこか神聖なものに対する誓いのような、そんな清らかなキスだった。 あたしは離れていく唇に、もう一度だけ自分から軽く口付け、微笑んだ。 置いていかれる者の苦しみは、きっとその人にしか分からない。鈴影さんがバーゼルで消息を絶ってしまった時にあたしがどんな思いをしたのか、鈴影さんを庇ったあたしが背に銃弾を受けた時に鈴影さんがどんな思いをしたのか、お互いにお互いの思いは理解出来ない。けれど、人は誓うことが出来る。確約のない約束だけれど、それでも。気休めであってもそうした繋がりを持っていられるということが大切なのだと。 この手が離れてしまっても、心が繋がっていればそれでいい。それだけで、いいから。 あたしは鈴影さんの冷たい頬を自らの掌で包んで、未来を想った。 「明日、一緒に紅葉を見に行きましょう。きっと、とっても綺麗よ」 |