06:恋情









 今年も又、凍えるような冬が来た。
 夜の間に降り積もった雪をサクサクと踏みしめて、通い慣れた街路を辿る。閑静な住宅街はその名の通り不気味な程に静かで、遠く彼の屋 敷の周辺から微かに人の声が洩れ聞こえる程度だった。聖なる夜に相応しい静寂だ、とあたしは小さく口元を緩めた。
 幼い頃から通い慣れたこの道を辿る度、あたしはいつも胸の奥に郷愁じみた切なさを覚える。幼かったあの頃にはもうどうしたって戻れない、 そんなことは自明の筈なのに、この道を駆ける小さな自分達の姿が、今も脳裏に浮かんでは消えていくのだ。走っていくあたしを背後から優し い眼差しで見つめている彼は、今はもうあたしの隣には居ない。あの時側に居たというその思い出が、あたしの胸に残っているだけ。
 ……未練がましいこの想いを持て余して、もう六年になる。口には出せない、今となっては秘めるべき想いだ。
 決して成就することのない、哀しき恋情。

「こんなものを持ってきてしまう位には、あたしはまだヤツのことを想っているらしい。全く、諦めが悪いことだな」

 寒さに凍える両手を小さく擦り合わせて、大して暖かくもない吐息を吹きかける。寒さに震えて、それでもコートのポケットに手を入れないのは 、そこに彼へのプレゼントがあるからだ。
 一目見て気に入った、美しいカフス。彼の瞳と同じ、深緑色のエメラルド。
 彼は喜んでくれるだろうか、ふとそんな不安が頭を過ぎる。今の彼には大切な存在がすぐ側に居る。それでも、許されるならこの一度だけ。

「嬉しいよと笑って、抱き締めてくれたら」

 微かなざわめきに顔を上げると、既に彼の屋敷の前に立っていた。普段はしっかりと閉じられている門が今日ばかりはと開け放たれ、中庭は 招待された客達で溢れていた。屋敷も解放されているようだが縁故でない者は中には入ることが出来ないらしく、手にグラスを持ったスーツ姿 の一般客は中庭を巡り当て所もなく談笑をしては離れていく。ぐるぐると中庭を巡るその様子がまるでDNAの二重螺旋構造の様だと、あたしは そんなことをしばらくぼんやりと考えていた。

「冷泉寺」

 門の前で、しかし中に入ることもなく立ち尽くしていたあたしにふと艶やかな声が届いた。少し低い、高価なバイオリンの様な声。
(……レオン)
 本当は、ここまで来ても逢えるとは思っていなかった。沢山の訪問者達に囲まれて祝福を受ける彼が、自分などと話す時間は無いだろうと、 そう思っていたのに。
(レオンはいつもそうだ。そうしてあたしを見つけてくれるのに、側にいるのはあたしじゃない)
 あたしはふるりと震えた手を握り締め、黒衣のようなコートのポケットに無造作に両手を突っ込んだ。こつりと触れたビロードの小箱がやけに冷 たく感じられ、あたしは小さく息を吐いて薄く笑った。

「よ、今日の主役がこんな所に居てていいのか」

「構わないさ、大切な友人と話すことが出来ないほど忙しいわけじゃない」

 彼は美しい漆黒のタキシードに身を包み、うっとりするような眼差しで微笑んだ。小さな頃から変わらない、慈悲深いキリストのような微笑み。 人は皆、この微笑みと暖かな包容力に惹かれて彼を愛してしまうのだ。
 他ならないあたしも又、その一人。
(だけど、彼の愛情を受けることが出来るのはたった一人だ。レオンが選んだ、あの少女だけ)

「大切な友人、か。その友人から、レオンにプレゼント」

 何か大切なものを失った気がする。
 滑らかな手触りのその小箱をレオンに向かって放りながら、あたしはそんなことを考えていた。

「これは?」

「要らなかったら捨ててくれていい」

 くるりと背を向けて、歩き出す。もうこれ以上レオンの顔を見ている勇気が無かった。自分の吐息が白く濁る度、自己嫌悪が増す。

「あんたが気に入るかどうか分からないし、それは完全にあたしの趣味で選んだ物だからな」

「……冷泉寺」

 呼ばれた声に、思わず足を止めた。諦めたと言ったその口で、まだ未来を望んでいた。
(馬鹿馬鹿しい恋情だ。全て振り切ることが出来たら、どんなにいいだろう)
(けれどそんなことが出来ないことは、他の誰でもないあたし自身が一番よく分かっている)

「とても気に入ったよ、ありがとう」

 背中越しに掛けられた声に、不覚にも瞳が潤んだ。何故だか分からないけれど、勿論悲しいわけではないのだけれど。
 声を出せば知られてしまいそうで、あたしはポケットに突っ込んだ右手を背後に向かってひらりと振った。それで終わりだった。これで、自分の 気持ちに区切りをつけることが出来る。そう思っていた。
 履き慣れた革靴でアスファルトを踏む度、今までの思い出が走馬燈のように浮かび上がり、水面を揺らしては消えていく。女々しいと一蹴する ことは簡単だけれど、自分のことなのだからそうもいくまい。恋心というものは、本当に厄介で、もうしばらくはこんな気持ちにはならないだろうと 吐息を漏らす。
 少しずつ喧噪が遠ざかり、あたしの気持ちもゆっくりと溶けていく。完全に忘れてしまうなんてことは絶対に無理だけれど、それでも前を向いて 生きていくことが出来るから。いつまでもレオンの影を追うことは出来ない、あたしはあたしの未来を追わなければならないから。

「あーあ、終わったな」

 呟いた声は、乾いた冬の大気に溶けて、静かに消えた。
 さよなら、初恋。その思いが友情に変わるまで、もうしばらく時間がかかるだろうけど、いつかは笑って話せる日が来る筈だから。


「その日まで、あんたの大切な友人でいてやるよ」






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