03:熱帯夜









「暑っちい……」

 風の吹かない夜は澱んだ大気が湿気と共に熱を孕み、元々体温の高いオレの体感温度を否が応にも吊り上げる。じっとしているだけで滴り落ちる汗をタオルケットで拭うと、オレは我慢出来ずにベッドから抜け出した。
 クーラーを付けて寝るのはあんまり好きじゃないけど、この暑さじゃいつまで経っても眠れそうにないし。今日だけはその信念を曲げてクーラーを付けるとしようと、闇と同化するブルーブラックの髪を軽く掻いて、開けっぱなしだった窓を閉じようと手を掛けた時だった。オレは微かな違和感を覚え、裸足のままベランダに出て、辺りをぐるりと見回した。暗闇の先には、幼い頃から見慣れたユメミの家があり、そして視線の先にはユメミの部屋がある。

「……あれ? 電気点いてんじゃん」

 そう小さく呟いて部屋の掛時計を見ると、針は午前二時過ぎを指し示している。いつものユメミならもうとっくに寝ている筈の時間だ。
 ユメミはいつも、誰よりも早く目を覚ます。四人分の朝食の準備をして、親父さんの弁当を作って、弟達の登校の準備を手伝って、洗濯物と布団を干して。オレが朝のロードワークから帰って来た時には、きっちりと制服を着込んで親父さんの見送りを済ませたユメミが微笑みながら手を振ってくれるのだ。いつもと変わらない微笑みは、ユメミがどんな思いを抱えていても変わらない。時に切なくなってしまうほど痛々しく見えるけれど、その微笑みに救われている自分もいるのだ。
 そんなユメミの就寝時間は早い。次の日のことを考えて、十一時過ぎには眠っているのだと言っているのを聞いたことがある位だから。

「珍しいな……、明日も学校あるのに」

 覗き見みたいで気が進まなかったけれど、いつもとは違うユメミの行動に興味を持って、オレはカーテン越しに揺れるユメミの影を手すりにもたれかかりながら見るともなしに眺めていた。
 小さな影が、まるで陽炎の様に揺れている。オレンジ色の灯火を受けて頼りなげに揺れるその姿に、オレは何故か居心地の悪い落ち着かなさを感じていた。……何だろう、満月の夜でもないのに、胸の奥がざわざわとざわめく。頭の中で誰かが叫んでいるような、
( 危 機 感 )

「……ッ!」

 目を離せずにいた影が大きく左に傾ぎ、消えてしまったのを見て、オレは無意識の内にベランダの手すりに足を掛け、夜空に飛んだ。
 オレの部屋とユメミの部屋の間には、枝が大きく張り出した大木がどんと鎮座している。オレはその木の一番太く張り出した枝に足を掛け、慣れたルートでユメミの部屋のベランダに降り立った。幼い頃から繰り返しているその行為は、ユメミや母親には危ないからやめろと言われるけれど、オレにとっては朝飯前だ。

「ユメミっ!」

 涼を取る為に網戸になっていたそれをカーテンと同時に引き開けて、オレは部屋に滑り込む。煌々と電気の点いた室内には、やはりと言うべきかパジャマ姿のユメミがベッドの足下で俯せに倒れていた。

「ユメミ……?」

 柔らかな身体が、やけに重い。オレは倒れているユメミの身体を抱き上げ、そっとベッドに横たえた。
 苦しげに眉を顰めたその顔は驚く程に真っ白で、まるで死人の様相を呈し、オレは可笑しいほど震える手を固く握りしめた。命と言うものはとても儚い、そんな言葉が脳裏を過ぎる。

「ユメミ……」

 震える指先で、白い頬を撫でる。外気温に反してとても低い体温に、オレは自分の掌をユメミの頬に当て、自らの熱を少しでも分けようとそっと包み込んだ。最近ロッジ以外ではなかなか逢うことがなかったユメミは、一目で痩せたと分かる程に細くなっていて、オレは冷たい頬を暖めながら愕然とした思いに駆られた。
 何があったんだろう、何がこれほどまでにユメミを追い詰めているのか。そう考えて辿り着くのはたった一つだ。ユメミが一番大切にしている、たった一つの思い。

「レオン……ッ」

 オレはやり切れない思いを噛み締めて、吐き捨てるようにその名前を呟いた。
 一月ほど前から行方が分からなくなっているロッジの主は、誰に何を告げることもなく居なくなってしまった。厳重に管理されている筈のグノームの聖剣だけを手にして、誰かに追い立てられるように。彼にどんな事情があったのかは分からないし、どこで何をしているのかさえも今の時点では何の情報も手に入らない。いつかと同じように、「下位の騎士から上位の騎士へ連絡を取ることなど許されない」という素っ気ない対応があるだけだ。姿を消してしまったことで、ユメミがどれだけ苦しんでいるのかそんなことも知らずに。

「レオンはいつもそうだ……、必ず守ると言ったその口で真実を告げずに消えちまう」

 苛立たしげに呟いたオレは、真白い顔で苦しげに息をしているユメミに気付いて、慌てて側に落ちていた携帯を拾い上げ冷泉寺のメモリーを探した。使い慣れないユメミの携帯では番号を出すのにさえ戸惑って、自分の携帯を持ってくれば良かったと毒づく。
 寝ているユメミの足下から、きちんと畳まれた布団を片手で器用に着せ掛けてやりながら、俺は受話器に耳を当てた。微かな電子音が、静かな深夜にはやけに大きく聞こえる。

『……もしもし? 何だ、こんな時間に』

 いかにも眠そうな冷泉寺の声が聞こえて、次いで大きな欠伸。俺は小さく笑って、ユメミの枕元に腰を下ろした。

「寝てたとこ、ごめん。オレ、高天」

『……奇妙な電話もあったもんだ。お前達とうとう一線を越えたのか?』

 少しの驚きと大層な皮肉を織り交ぜて、冷泉寺がくぐもった笑い声を聞かせた。オレはムッとして、「んなわけあるか」と噛み付く。そりゃ、そうなれればどれだけ良いだろう。でもユメミはレオンのことが好きなんだ。そんなユメミの気持ちを無視することなんて、出来やしない。オレはユメミが二度も恋の記憶を失って苦しんでいたのを、よく知っているんだから。

「ユメミが倒れたんだ。しばらく様子を見てたんだけど、まだ顔色が悪い。……呼吸も、少し苦しそうなんだ。来てやってくれないか」

『何をしていて倒れた? 吐いてはいないのか』

 倒れたと言った途端冷泉寺は眠気が吹っ飛んだようで、やたらハキハキ質問するその様子はユメミのことが心配であるらしく感じられる。
 俺はユメミの額に掛かった髪を、そっと指先でどけてやりながら、小さく答えた。

「倒れた後で見つけたんだ。何をしていたのかは分からない。吐いてはいないようだけど、少し体温が低いんだ」

『……分かった、すぐ行くから待ってろ』

 一方的にそう言って、電話は切れた。オレは大きく安堵の吐息を吐いて、携帯をユメミの枕元に置いてやった。ユメミがいつもこうして、レオンからの連絡が来るのを待っているのを、天吾から聞いていたからだ。

「すぐ冷泉寺が来てくれるからな、頑張れよ」

 さらりと撫でた額は相変わらず冷たく、オレを切なくさせる。こんなに体調を崩してしまう程に、お前は頑張ってたんだな。

「気付いてやれなくて、ごめん」

 不甲斐ないのはレオンではなく、オレ自身だ。こんなに近くにいたのに気付かなかったなんて、一体オレは何を見ていたんだろう。
 罪悪感と言い知れない後悔とが胸の中を渦巻いて辛い。泣くことは無いけれど、締め付けられるような苦しさはそこに在り続ける。この痛みは一生、忘れないだろうと思う程に。

「……沢山、頑張ったんだな」

 明るい日差しに良く映える茶色い髪も、美しい微笑みも、今は堅く閉ざされたままで見ることは出来ない。けれど、

「オレ達が必ずレオンを見つけるから、だから」

 お前はただここで待っていてくれと、オレ達の帰る家であってほしいと、そんな風に思うのは罪だろうか。
 決して自分の元には来ない相手を思い続けるのは辛いけれど、それでもお前が笑っていてくれるなら、それだけでいいと。その微笑みの為に、オレは頑張れるから。

「好きだよ。今までも、これからも、ずっと」

 呟いた声は、熱を孕んだ夜空に消えた。オレは小さく吐息して、一度だけユメミの白い額に唇を落とす。
 オレはオレ自身をお前の為に生かすと誓うよ。
 この唇も、この足も手もオレの全てはきっと、生まれた時からお前のものだから。

「だから、又」

 あの日溜まりのような微笑みを、オレに見せてくれよ、と。






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