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02:愛ある世界 雨の日はどうしようもなく寂しい気分になるから、嫌い。 昨日の夜半から降り出した雨は、濃い霧を伴って早朝の空を包み込んでいた。 しっとりと湿った大気、乳白色の庭園。少しだけ開いたカーテンの隙間から覗くのは、そんな他愛もない光景ばかりだ。ああ降っているな、と 思う他は何の変化も無く、ただ微かに雨音だけが響いている。 雨は全ての物音を吸い込んで、大地に染み込む。だから雨の日はいつも、こんなに静かで寂しいのだろう。 「最近雨ばっかり……」 昨日はやっと晴れたと喜んでいたのに、すぐにこれだ。秋の長雨とは言うけれど、いくら何でも降り過ぎではないだろうか。何しろもう一週間も 降り続いている雨は、未だ止む気配さえ見せない。 雨が続くと洗濯物は干せないし、お布団も干せないしで散々だ。買い物に行くのだって、傘を持っているだけで買い込む量が制限されてしまうのだから。そこまで考えて、あたしははっとした。 そうか、ここはうちじゃないんだわ。だから洗濯物を干すこともないし、買い物に行くこともない。天吾と人吾も居ないし、パパも居ないのだから 。鈴影さんのお家では、あたしはゲストで主婦ではないのだ。 でも、それは少し、寂しいことのように思えた。染みついた毎日の習慣は決して消すことが出来ないし、消す必要もないのだけれど、あたしのアイデンティティが失われてしまった様な気がして落ち着かないのだ。 「お台所に立ちたいな……」 溜息のような囁きをぽつりと落として、ごそごそと寝返りを打つ。霧に霞んだ庭園ばかりを見せる窓に辟易して背を向けると、間近に鈴影さん の寝顔が在って、思わずドキリとした。 ……シーツに埋もれた横顔が、とても綺麗。 まるで彫像なのではないかと思う程に整ったその造作は、触れることを躊躇うほどに美しく潔癖で、あたしはいつも唇を合わせることを躊躇し てしまう。吐息が触れる程の至近距離で、どこを見ていいのか分からなくなってしまうのだ。そうして羞恥に瞳を伏せると、鈴影さんは少し笑って 「ユメミは恥ずかしがり屋だね」と、軽く唇を重ねるだけのキスをくれる。 あたしはそれが嬉しくて、触れるだけの優しいキスを何度も何度も強請っては微笑み合うのだ。 「この唇が、あたしに触れる」 微かな吐息を立てて眠っている鈴影さんの薄い唇を、指先で辿る。なだらかなカーブ、微笑む時にちょっとだけ上がる口端。全てが愛しくて、 愛しくて、二度辿って指を離した。これ以上触れていると、おかしな気分になってしまいそうだった。 「……シャワーでも浴びよう」 あたしはベッドサイドに掛けてあるローブを取って、鈴影さんを起こさないようにそれを羽織った。肌触りの良い生地で仕立てられたローブは鈴影さん用のハーフサイズで、けれどあたしが着ると踝まですっぽりと隠れてしまう。 まるで旅館の浴衣のようで、あたしは腕を広げてそれを見下ろし、思わず笑ってしまった。こんなにサイズの違いがあるのだと思うと、ちょっと 可笑しい。 「今度、君のサイズのローブを作らせよう」 突然掛かった声に、あたしは驚いて振り返った。そこには半身を起こした鈴影さんが、真白いシーツに埋もれたままこちらを眺めて笑っていた 。 「起きてたの?」 「ん、ちょっと前にね」 「声、掛けてくれたら良かったのに。黙って見てるなんてひどいわ」 頬を膨らませてそう言うと、鈴影さんは「ごめん」とちっとも悪いと思っていない顔で謝った。目が笑ってるわ、もう。 「とても、可愛かったから。声を掛け辛かったんだ」 寝起きの掠れた声で、鈴影さんが言った。 あたしはマットの端に乗り上げて、乱れた髪を掻き上げている鈴影さんの顔を覗き込む。鈴影さんはその美しい黒炭のような瞳を潤ませて、不 安定な体勢のあたしを自分の腕の中に引き込んだ。 「……愛しているよ」 「あたしも、愛してるわ」 熱っぽい告白は、あたしの胸を熱くした。 こうして言葉にして貰うのは、とても好き。愛している、ってとっても素敵な言葉だと思う。 「君とこうしていられるなんて、まるで夢のようだ」 鈴影さんがあたしを抱きしめたまま、ぽつりと呟いた。 あたしはそのしなやかな背中に腕を回し、この胸に満ちる沢山の愛情を込めて、優しく撫でた。 「あたし達、いっぱいいっぱい幸せになりましょうね」 誰もが羨む程に。今まで実らなかった恋だから、誰よりも、誰よりも。 幸せになりたいと望む心は日増しに強くなり、求めるものも次第に大きくなり。けれど最終的にはあなただけが残ればいいと、そんな風に思う自分も居る。そんな自分に少し、戸惑いを覚えるけれど、それが愛情ってものなのかしらと鈴影さんの背を抱きながら考えていた。 愛って我が儘になるということねと、囁くと、鈴影さんは喉の奥で笑ってそうだねと呟いた。 |